伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ-10(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 今朝も静かな朝です。

 

 さて、生活費は自分で稼ぐことを約束して、東京に出てきた神村少年は、毎日、毎日、アルバイトに明け暮れる生活をしていたわけでありますが、当時、アルバイトでどれくらい稼いでいたのかを思い出してみますと、当時のアルバイトの時給が、たしか三百五十円から五百円くらいの間はなかったかと思います。

 

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 ですから神村少年が一か月間で稼いでいたのは、たしか三万円から四万円くらいではなかったかと思います。

 

 しかし当時の三万円から四万円は、今の六万円から八万円、もしかしたら、七万五千円から十万円くらいの価値があったのではないかと思います。

 

 そして、当時の物価はと申しますと、これも私の記憶で申し訳ありませんが、銭湯が百五十円、今はおそらく四百円以上になっているのではないでしょうか。また珈琲一杯が三百円、映画が千三百円、瓶のコーラ(当時はまだペットボトルはありませんでした)が五十円、そして外食をしますと、最低でも三百円程度は必要で、立ち食いソバも二百五十円程度はしていたと思います。

 

 そういう状況でしたので、アルバイトで生活していた神村少年の暮らしは、決して余裕のあるものではございませんでした。

 

 当時の神村少年は一日の生活費を五百円と決めておりました。これは断っておきますが、一食五百円のワンコインではなく、一日の全ての生活費(休日に遊びに出た時の交通費や、米代、その他の必要品をのぞいて)を五百円と決めておりました。

 

 当時新宿に、たしか「三平ストアー」あるいは「サンパーク」という名の小さな(失礼)デパートのようなお店があり、そのレストランでお昼の日替わり定食が三百円程度ではなかったかと思います。

 

 つまり、その三百円の日替わり定食を食べて、銭湯に行くと、その日の生活費の残りは五十円しかなく、夕食は五十円で食べないといけないのでした。

 

 夏の暑い時期には、五十円のアイスキャンディを食べると、夕食のおかずは塩だけとなるのでした。

 

 余談ですが、当時のアイスキャンディのことは、よく覚えてはいませんが、あのガリガリ君が登場するのは、もう少し後のこととなります。

 

 ですので、神村少年の一日は、朝は食べない。学校が終わると、みなさん「ビッグロシア」というパンをご存じですか?今でもあるかも知れませんが、大きなコッペパンにねっとりとした砂糖を塗りたくった「ビッグロシア」というパンがありまして、そのパンを二日間、あるいは三日間の昼食にしていました。

 

 夕食はと言いますと、今でもあります丸美屋の麻婆豆腐の素(百二十円)と豆腐一丁(四十円)を買って、下宿で麻婆丼を作っていました。

 

 神村少年の持ってい炊飯器は、三合炊きでしたので、三合のご飯が炊けたお釜の中に直接、麻婆豆腐をいれて、三合のご飯を一度に全部食べていました。

 

 毎日、毎日、麻婆豆腐の生活でしたが、そうすることで、毎日銭湯に行くことが出来ました。毎日食べ続けていた、丸美屋の麻婆豆腐は、今でも時々作っていただきますが、麻婆豆腐を食べると、その度に当時のことを懐かしく思い出します。

 

 神村少年は外食もしていたのですが、外食で一番の思い出は、西部新宿線の井荻の駅前にありました「みかちゃん食堂」であります。

 

 昼食をビッグロシアにして銭湯に入っても、三百円程度は余裕がありますので、神村少年はよく「みかちゃん食堂」を利用しておりました。

 

 しかし、なんせ三百円ですので、豪華な夕食は無理でございます。

 

 神村少年の予算で食べることが出来たのは、玉子焼き定食(三百円)とニラ玉定食(三百三十円)でした。

 

 ですから、時には三百三十円のニラ玉定食にするか、あるいは三百円の玉子焼き定食に三十円の納豆を付けるかが、神村少年の最大の悩みとなる日もございました。

 

 またまた余談ではありますが、私は高校を卒業するまでは、納豆を食べること出来ませんでしたが、東京での貧乏生活のおかげで納豆が大好きになりました。今でも納豆は大好きなのでありますが、昨年脳梗塞を患ってから、病院でいただいている薬の関係で納豆を食べることが出来なくなりました。

 

 いつでしたか、毎日、毎日、神村少年は敵のように玉子焼き定食を食べていたのでありますが、ある日、食堂のおばちゃんが

 

「たまには栄養を付けないといけないよ」

 

と言って「アジフライ」をサービスで付けてくれました。

 

もちろん私はありがたくいただいたのでありますが、もともと魚嫌いの私は「アジフライ」を食べたのは、後にも先にもこの一回限りなのであります。

 

みかちゃん食堂」の皆様、大変お世話になりました。

 

 さて、神村少年の東京生活でのその他の思い出の味となりますと、新宿にありました「アカシヤ」という洋食店でのロールキャベツ(はっきりとは覚えておりませんが、ライス付きで三百円程度ではなかったかとおもいます。いや頻繁に食べてはいませんので、もう少し高価だったかも……)、それから新宿の紀伊国屋書店の地下にありました餃子の専門店で、たしか二百九十円で餃子が二十個以上出てくる餃子定食、それから新宿西口の小便横丁(たしかみんなそう呼んでいたと思います)の天丼。天丼と申しましても、乗っている天ぷらは、エビやアナゴではなく、ほとんど小麦粉の中にときどき玉ねぎが入っている、まさに匠の技、芸術的なころもだけのかき揚げがドーン乗った天丼でありましたが、神村少年の胃袋を満たすには十分でございました。

 

 そのほか、あちらこちらの立ち食いソバ、新宿の伊勢丹の近くの焼きそばなど、今ではB級グルメとして取り上げられるものばかりが、神村少年の食生活の中心なのでありました。

 

 そうそう、吉野家の牛丼もありましが、神村少年は牛丼の頼み方がわからず、お店に入ることが出来なかったのであります。もちろん今では何を悩むことなく入れますよ。

 

 今から思いますと、とても懐かしい、毎日でありました。

東京というところ-9(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 外は雨が降っています。部屋の中で、外の雨音を聴いていると、何となく心が落ち着いてきますね。

 

 さて、不安な思いを胸一杯にして、神村少年の東京での生活が始まりました。

 

 その頃の日本は、荒れ狂った学生運動も「あさま山荘事件」で終焉を迎え、はたまた、第一次、第二次と世間を混乱に陥れた「オイルショック」からも抜け出し、次々に新しいものが登場してくる時代となっておりました。

 

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 今では日本中どこに行ってもある「マクドナルド」が日本で初めてお店を出したのも、この頃であったと思います。

 私も確か銀座か新宿にハンバーガーを物珍し気に食べに行った記憶があり、初めて食べたピクルスの味に、これは日本人の食う物ではないなと思いましたが、今ではピクルスの入っていないマックなんてといった感じで、美味しくいただいています。

 

 また下宿の近くに「セブンイレブン」というコンビニエンスストアと呼ばれる、小さなスーパーのようなお店が開店しました。

 当時は今のように二十四時間営業ではなく、朝の七時から、夜の十一時までの営業でした。ですから「セブンイレブン」と宣伝していたように記憶しています。

 また今の「セブンイレブン」はオレンジとグリーンが基本カラーになっていますが、当時はオレンジだけだったような気がしますが、この点はあいまいでございます。

 しかし夜の十一時まで営業しているお店何て当時は少なく(飲食店は除いて)、便利になったものだと思ったものです。

 

 またマイクロプロセッサーというものが開発されて、パソコン、当時はまだパソコンなどと略して呼ばずに、パーソナルコンピューターと言うものが世の中に登場したころでもありました。

 ゲームセンターでは「スペースインベーダー」というテレビゲームが流行し始めた頃でもありました。

 この後「スペースインベーダー」は爆発的な流行をすることになります。

 

 音楽の世界も、アイドルと呼ばれる人たちもいれば、フォークソング、ロックの分かも根付いてきた頃であり、新しくパンクロック呼ばれるものも登場してきました。

 しかしヘビーメタルと呼ばれるロックの登場は、もう少し後のことになります。

 

 原宿では「タケノコ族」と呼ばれる若者が踊っていたように思います。

 

 以上は、私の記憶のなかでの話ですので、多少思い違い、記憶違いもあるとは思いますので、ご了解ください。

 

 この時代から十年後くらいに、日本はバブル景気と呼ばれる好景気の時代となるわけではありますが、私が東京で暮らし始めた頃は、そのバブル景気に向かって日本が走り始めた頃だったように思います。

 

 そんな時代に、神村少年は東京での生活を始めたのでありますが、山陰の片田舎で育った神村少年にとって、東京での生活は驚きの連続でありました。

 

 神村少年がまず驚いたのは、バスの乗降でありました。

 

 神村少年が育った田舎のバスは、バスの中ほどの入口から乗って、降りるときは運転手さんのいる前側のドアから降りるシステムになっており、料金も降りる時に、バスに乗った区間によって異なるのでしたが、東京のバスは、前側のドアから乗って、まず同一の料金を支払い、降りる時にはバスの中ほどのドアから降りる。

 神村少年は始めはバスの乗り方がわからず、バスに乗ることが出来ませんでした。ですからバスに緊張して乗るより、歩いた方が気が楽と、どこまでも歩いて行ったのであります。

 

 専門学校の入学式も終わると、何より初めに取り掛かったのはアルバイト探しでした。なんせ生活費は自分で稼ぐと言ったのですから、何とか収入源を確保しないといけません。

 

 神村少年は「アルバイトニュース」を買ってアルバイト探しを始めたのでした。

 

 学校は代々木、下宿は杉並の井草でしたので、神村少年はその中間あたりの高田馬場の周辺でアルバイトを探したのであります。

 

 幸いすぐに駅から徒歩で五分くらいのところにあるクリーニング店がアルバイトを募集しており、神村少年はそのクリーニング店でアルバイトをすることになったのでありました。

 

 神村少年にとって人生初めての仕事であります、クリーニング店での神村少年の仕事は、ワイシャツのプレスの仕事でありました。ムシムシと暑いクリーニング店の中で、毎日毎日ワイシャツをプレスする仕事ではありましたが、神村少年はそれなりに楽しく、またそれなりに生活に必要な収入も得たのでありました。

 

 あの時、まだわけのわからない田舎の少年にいろいろと教えてくださったクリーニング店の皆さんも、今は皆さんいい歳に、いやもしかしたら、あの世と言うところに逝かれた方もあるのではないかと思いますが、この場をお借りして、改めて御礼を申し上げます。

 

 その後、神村少年は新宿の歌舞伎町にありました金物店で販売のアルバイト、また歌舞伎町のディスコの黒服のアルバイト、当時はジョントラボルタの「サタデーナイトフィーバー」という映画がヒットしていたと思うのですが、新宿には大小いくつかのディスコがありました。

 

 別にディスコにもダンスにも興味の無い神村少年でしたが、時給のよさに飛びついたアルバイトでした。

 

 その後も、歌舞伎町で中華料理店の調理補助などのアルバイトを経験した神村少年でしたが、日本一と言われる歌舞伎町でのアルバイトは、様々な人間模様を見ることにより、良気に付け悪しきに付け、その後の神村少年の人生の糧となったと思います。

 

 アルバイトが中心の生活のようではありますが、神村少年は学校にもしっかりと通学しており、それなりに学業も頑張っていました。

 

 午前中は学校に行き、午後から、はたまた夕方からアルバイト、アルバイトを終えて下宿に帰ると朝まで学校の課題やって、ちょっと寝て、そして学校に行く。

 

 今から考えると結構ハードな毎日ではありましたが、日々楽しく生活していたように覚えています。

 

 しかし、ディスコでアルバイトをしている時は、下宿に帰るのが深夜になっており、当然銭湯はすでに終わっており、毎日下宿の小さな洗面台に頭を突っ込んで頭を洗い身体を拭く、風呂に入れない生活は今から思えば、随分と臭いそうな生活でありました。

 

 そんな生活でありましたので、洗濯も週に一度できればいい方で、洗濯物が溜まりに溜まって、ひどいときには、溜め込んだ洗濯物の中から、まだ着れそうなものを選択するという洗濯をしていたものでした。

 

 ああ、なんとも汚い生活であったものです。

 

 しかしそんな生活が、神村少年が故郷で就職してからの仕事の中での苦しい時の励みになっていたように思います。

東京というところ-8(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 専門学校の入学の手続きも終わり、東京生活で必要な物も買い揃えて、下宿先に送ってしまい、いよいよ明日は旅立ちの日の前の日、夕食を終えた神村少年の母は、当面の生活費として、十万円を用意してくれました。

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 母は

「いいかい、東京というところは怖い所だよ。お前みたいにまだ何も知らない、田舎者が生活できるところじゃないかも知れないよ。人の言うことを簡単に信じちゃいけないよ。人を見たら泥棒と思わないといけないよ。いいかい、わかったかい。ここに東京での当面の生活費として十万円入れておくからね。東京に着くまでに落としたりしたら大変だから、お前の下着に縫い付けておくよ。いいかい、東京に着いて、部屋に入って、ドアに鍵をかけるまで、この袋から出すんじゃないよ。新幹線の中で出したりするんじゃないよ」

 

 そう言いながら、母は十万円が入った封筒を布の袋に入れて、その袋を明日、私が着て行く下着にの胸のところに縫い付けてくれました。

 

 その母を私はじっと見つめていました。

 

 母は私の憧れだけのわがままを何も言わずに全て聞き入れてくれて、東京での生活の準備をしてくれたのでした。

 

 母子家庭の我が家には、私を東京の専門学校に行かせる余裕などあるとは思えず、おそらくあちらこちらからお金を借りて準備をしてくれていることは、何となく気が付いておりました。

 

 この十万円だって、余裕のあるお金ではないはず、私は下着に袋を縫い付けている母をみていると、なんだかとんでもない親不孝をしてしまったように思ったのでした。

 

 そして、せっかく母が苦労して行かせてくれる専門学校だ。この専門学校を選んだ理由は不純だけれど、なんとしても卒業まで頑張ろう。

 

そして卒業したら、きっとここに戻って来る。そしたら私は一生懸命に働いて、きっと母に楽をさせてやる。これまでの親不孝を何倍にもして、きっと楽をさせてやるから、もう少し、ほんの少しの時間を待っていてほしいと、心の中で母に話しかけたのでした。

 

 そうして入学した専門学校を結局、私は卒業することなく、故郷に帰り就職なるのですが……。

 

 就職後は、自分でいうのもなんですが、それは一生懸命に働きました。

 

 我武者羅に働きました。

 

 三十前には、母の念願であった家も建てました。

 

 婚期はかなり遅れましたが、結婚もし、孫の顔を見せることも出来ました。

 

 旅行好きの母が行きたいと言うところは、すべて連れて行きました。

 

 四十前には、二軒目の家を建てました。二軒目の新築の家の風呂に最初に入った母は、

 

「まさか、一生のうちに、新築の家の初風呂に、二回も入れるなんて思ってもいなかったよ。初風呂のに二回入ると中気がつかないというから、あたしはポックリと逝けるかもしれないね」

なんて冗談を言っていたのを思い出します。

 

 私は自分としては精一杯の親孝行をしたつもりでした。

 

 

 そんな母も十年ほど前に癌で遠い世界に逝ってしましました。癌だとわかってから、三カ月ほどの入院で、あっけない終わりでした。ほんとうにポックリと逝ったように思います。

 

 私は今でも考えることがあるのですが、東京から帰ってから、私は本当の親孝行が出来たのだろうかと……もっとしてやれることがあったのではないだろうかと思ってしまいます。

 

 でも、母はもういません。

 

 翌朝、私はギターケースと小物の入ったカバンを持って、ひとりで駅に向かいました。母は玄関までは見送ってくれましたが、駅にはついてきてはくれませんでした。おそらく息子が列車に乗る姿を見ることに耐えられないと思ったのでしょうね。

 

 私は駅に向かう道で、すぐに帰って来る、そしてこの生まれ育った町で頑張る。

 

 私はひとり岡山へ向かう列車に乗りました。岡山で東京へ向かう新幹線に乗り換えると、今までの浮ついた憧れなどは消えて無くなり、東京で一人暮らしをする不安な気持ちが満ち溢れた気の小さな十九歳の少年となっていました。

東京というところ-7(遠い記憶の中に)

 おはようございます。

 

 地獄のような月曜日の仕事を何とか乗り越えるには乗り越えましたが、今日を含めて、やりたくない仕事を、まだ四日もやらないといけません。ああ、早く定年になってほしい。早く爺になりたいと思う今朝なのでした。

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 さて、そういうことで神村親子の東京での下宿探しが始まったのでありますが、そう言えば、最近では下宿という言葉も聞かなくなりましたね。最近の学生さんはなんと言っているのでしょうか?

 

 まあ、それはいいとして、右も左もわからない東京での下宿探しは、雲をつかむようなもんでありました。仕方が無いので、神村少年は確か『アパートニュース』のような雑誌を買って情報を集めたのでしたが、専門学校のある代々木周辺は全体的に家賃が高い、安い物件もあるが、どうも環境が劣悪みたい。

 

という訳で、なぜそうしたのかは今では思い出せませんが、神村親子は高田馬場に行こうということになりました。

 

 高田馬場の学生専門の下宿紹介所のようなところに行って相談すると、比較的環境がよくて、安い下宿となると、西部新宿線沿線で探してみてはとアドバイスを受けて、これもなぜ見つけたのかはもう忘れましたが、杉並の井草で一軒の下宿を見つけたのでありました。

 

 

 神村親子はさっそく部屋を見に行くことにしたのであります。

 

 高田馬場よりいくつかの駅を過ぎて、下井草という駅で降りて、そこから歩いて十分ほどのところにその下宿はありました。

 

 その下宿屋さんは母屋の二階にいくつかの部屋がありましたが、私が紹介を受けたのは、母屋の隣に車庫があり、その車庫の二階ある部屋でした。

 

 大家さんに案内されて、その部屋に入ると、そこは私の憧れていた、三畳一間、天井には裸電球、まさに私の憧れの部屋なのです。

 

 部屋の奥は窓になっております。奥といっても三畳の部屋です。入口からすでに手が届きそうな奥なのですが。とにかく窓があるのです。

 

あの窓を開けると、窓の下には

 

  神田川

 

 私はさっそく窓を開けてみました。

 

 しかし、そこには神田川は無く、

 

窓の下は

  大根畑でした。

 

 いいですか、東京の杉並ですよ、その当時は、まだ大根畑があったのです。今でもあるかも知れませんが、その当時はまだまだたくさんの畑が部屋の周りにあったのです。

 

 余談になりますが、その年の夏、夏休みを実家で過ごした私が、夏休みが終わって下宿に帰ると、その大根畑には二軒の建売の家が建っておりました。これから数年後にはバブルと言われる時代になるのですが、その始まりだったのかも知れません。

 

 

 神村少年は窓の下に神田川が流れていないことに、少々不満はあったのですが、神田川がどこを流れているのかもわかりませんでしたし、実は初めての東京で、歩き疲れたこともあり、この部屋に決めたのでありました。

 

 またまた余談でありますが、神村親子がこの部屋にたどり着き、部屋を決めた時にはすでに陽は西に傾いており、今夜の宿を探さないといけない時間になっていたのでありましたが、大家さんが、今からホテルを探すのは大変だからといって、その部屋で一晩泊まっていい、布団はよういすると言ってくださいました。何とも心暖かい大家さんなのでした。

 

 

 神村少年の東京での生活は、三畳一間で裸電球、そして窓の下には大根畑のこの部屋で始まることになったのであります。

 

 これから始まる東京生活に胸を躍らせながらその晩は寝たのであります。

 

 

 翌朝、一晩の御礼を言って、また高田馬場に戻ったのですが、駅の近くを、汚い川が流れており、やっぱり東京の川は汚いなと神村少年は見つめていたのでありましたが、その川が、神田川であることを知ったのは、それから随分後のことでありました。

 

東京というところ-6(遠い記憶の中に)

 おはようございます。

 さて、今日は月曜日、多くの皆様がそうであるように、私も今日からまた仕事でございます。

 

 月曜日って、本当につらいですよね。

 

 だって、今日からまた、行きたくない会社に行かないといけないし、やりたくない仕事をやらないといけないのですから。つらいに決まっています。

 仕事をはじめてから、もう何度もこの月曜日を過ごしてきているのですが、本当につらいです。できれば定年で辞めるまでに、すがすがしい月曜日を体験してみたいものです。

 

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 さて、自分がフォークソングかハードロック(神村少年がロックにであった頃は、まだヘビーメタルという言葉はありませんてした)の申し子と勘違いをして、母親か東京行の許しを取った私は、さっそく専門学校の入学に必要な資料を手に入れ、簡単な、本当に簡単な(名前が漢字で書けたら合格といった)入学の試験、それも送られて来た答案用紙に自宅で書き込むといった、簡単な入学のテストを受けて、即合格となって、専門学校に入学出来たのでありました。

 

 専門学校への入学が決まった三月のある日、私と母は、下宿探しに、東京に出かけたのでありました。

 

 岡山行の特急列車で岡山へ出て、そこから新幹線で東京へ、神村少年にとって、憧れの東京生活の準備が始まったのでした。

 

 この時、神村少年は東京とは不思議なところだと思ったのでした。

と申しますのは、神村少年は東京へ行きたい、行きたいと願望していたのでありますが、いざ東京へ着くと、正確には東京駅に着くと、そこには東京駅はあるのですが、東京という地名は無いのです。

つまり、東京都東京区東京町何丁目といった地名は無く、新宿であったり、渋谷であったりするのです。

 

 ですから神村少年にとっては、どこに行ったのあたしの東京?となるのです。

 

 おそらく東京より西に住んでいる方の中には、そう感じられた方も何人かおられるのでは、おひとりくらいはおられるのでは無いでしょうか?

 東京より東、または北の方に住んでおられる方の中には、東京へ行くと言いながら、上野駅に着いたと不思議に感じられた方も、おひとりくらいはおられるのでないでしょうか?

 

 

そう感じられた方は手を上げてください。

 

あれ?いませんか、いいですか……

 

 いけない、いけない、また話が横道、裏道、迷路の中に入りそうでした。

 

 気が付いたところで、話を戻しましょう。神村少年が東京へ初めて行ったのは、昭和四十年の終わりの頃で、今では東京都庁があるところもまだ開発が始まった頃で、高層ビルも三つくらいしかない頃でした。

 

 母親と東京に着いた神村少年はさっそく下宿探しを始めたのでありますが、

神村少年の下宿探しの要件は、三畳一間、裸電球、窓の下には神田川、この三つの要件しか無く、それ以外はなんでもいいのでありました。もちろんそんなことは、口にはしませんでしたが……。

 

 

 神村少年が入学を決めた専門学校は、渋谷と代々木の間にありましたので、母親としては出来るだけ学校に近いところと思っていたとは思うのですが、そこには神田川は流れておらず、神村少年の選択肢の中からは消えたのであります。

 しかし神村少年は神田川がどこに流れているのかも知りませんでした。

 

 そんな神村少年と母は、結局、下宿代の安いところという要件で考えが一致し、とにかく安い下宿屋を探すことにしたのであります。

 

 そして神村少年と、母の下宿探しの一日が始まったのでありました。 

東京というところ-5(遠い記憶の中に)

 おはようございます。

 

 

 いくら神村少年が変態、失礼、元へ、変人でも、急に

「俺、一度、日本の首都をみておきたい」などどいう訳がございません。神村少年はどのような作戦に出たかといいますと、まず卒業前でも入れる、適当な専門学校を探してきました。

 

 もちろん東京にある学校です。そして神村少年は母親に、もう少し勉強がしたいと申し出たのでありました。

 

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「あのね、焦っても仕方がないと思うんだ。で、俺、もう少し勉強がしてみたいと思っているんだ」

「もう少し勉強がしたいって、何の勉強がしたいんだい?」

「デザインの勉強がしたいんだけど……」

「デザイン?お前、洋服でもデザインするのかい?」

「違うよ」

「じゃあ、何のデザインをしたいんだい」

「インテリアデザインだよ」

 

「何だい?そのインテリ何とかというのは?お前にはインテリという言葉は似合わないよ」

「インテリじゃないよ。インテリアだよ。インテリアデザインというのは、部屋のデザインをしたりすることだよ」

「部屋のデザイン?そんなものが仕事になるのかい」

「一応、建築の一部だからね、仕事はたくさんあるみたいだよ」

 

「今からでも入れる学校なんてあるのかい?」

「東京に、〇〇デザイン専門学校ってあるんだ。そこなら今からでも間に合う」

「東京!何も東京まで行かなくても、大阪や、探したら広島にもあるんじゃないのかい?」

「いや、〇〇デザイン専門学校がいいと思うんだ。〇〇デザイン専門学校を出ると、二級建築士の受験資格もとれるんだ。それに〇〇デザイン専門学校は、卒業したら、短大卒と同様の学歴になるらしいんだ」

 

「それにしても、何も東京じゃなくてもいいんじゃないのかい?それに入学金や学費も高いんだろ。下宿したら、毎月の生活費もかかるじゃないか?」

「母さんには、入学金と学費、それから下宿代を出してほしんだ。生活費は俺が東京でアルバイトをして何とかするよ」

 

「でもねぇ……」

 

 神村少年は必死に母親を説得するのですが、なかなか承知をしてくれません。そこで神村少年は、遠く未来の希望をみつるような眼をして、天井の節穴を見つめながら

 

「学校を卒業したら、地元で就職する。仕事をしだしたら、きっともうどこにも行けなくなる。その前に、俺は、日本の首都、そう一度、日本の首都の東京というところをみて、日本が本当はどんな国なのか?日本の将来はどうなっていくのかを、この目で見て考えてみたいんだよ。それが出来るのは今しかないと思うんだ」

 

と母親の前で熱弁をふるったのでした。

 

 日本の将来を考えたいという、ちょっと考えれば、

 

何を言ってんだいこの馬鹿が……

 

となるような話を、神村少年の母親は、まあうちの息子は立派なことと目を潤ませながら見つめて、東京行を許してくれたのでした。

 

ということで、神村少年の目論みは成功して、東京へ行くことになったのでありますが、

 

専門学校はあくまでも口実でありまして、将来は建築家になりたいなんて、ちっとも、そう、指の先ほども考えてはおらず、東京へ行けば、憧れの三畳一間生活が、

 

そしてあの同棲生活が待っていると考えていたのであります。

 

本当におバカさんでした。

 

 前にも書きましたが、神村少年の青春の門を開いたのは『南こうせつかぐや姫』でありましたが、それは正面玄関でありまして、青春の裏口の門を開いたものもありました。

 

 それはロックと言われる、そう、それもハードロックと言われる外国の曲でありました。

 

 私は音楽の専門家ではありませんので、詳しくは語ることは出来ませんが、その頃、私はフォークソングとは別にこのハードロックと言われる世界にも憧れを持つようになったのであります。

 

 まず私の前に登場したのは、おそらく皆さんご存知の『ディープパープル』でありました。

 

 あの『スモークオンザウォーター』のイントロにノックアウトされたのでありました。

 

 それから『エリッククラプトン』の渋い髭面に恋をし、『レッド、ツェッペリン』のギターサウンドに脳天を勝ち割られて、天国への階段を駆け上ったのでありました。

 

 そんな中でも、神村少年を夢中にさせたのは、おそらく皆さんあまりご存じないかとは思いますが『ウィッシュボーンアッシュ』というイギリスのロックバンドでありました。

 

 神村少年は『ウィッシュボーンアッシュ』という百の眼を持った巨人の登場に、ロックの王様がやって来たように思い、剣を捨てて地面ひれ伏したのでありました。神村少年は東京に行けば、自分も輝くロックの星になれるのでないかと思うようになったのであります。

 

 そしてなんと自分のことを『アッシュ』と名乗るようになったのであります。

東京というところ-4(遠い記憶に中に)

 おはようございます。

 

 という訳で、神村少年は東京へ行きたいという願望を膨らませていたのでありますが、

 

 このような神村少年は、何となく何事にも積極的に取り組んでいく、行動派のように見えますが、実態は正反対でありました。

 

 神村少年はどんな少年だったかと申しますと、 

 

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 神村少年は世に言う、団塊の世代と第二段階の世代の間に生まれた子どもでありました。

 

 小学校の頃、前世が悪かったのか、どうしたものか、身長が伸びず、その反対に横幅が成長いたしまして、まあ、世の中では肥満児と分類される子どもでありました。

 

 そのような体格でありましたので、中学に入る時には身長百六十三センチ、これは自称でありまして、正確には百六十一センチしかなく、二センチほどサバを読んでおりました。それに対して、体重は七十キロ近くありました。

 

 そのような体格でありますので、当然、運動は大の苦手でありまして、体育の時間が大嫌い、明日が体育祭ともなりますと、近くの神社で雨ごいをする少年でありました。

 

 これは音楽のテストと同じ理屈でありますが、運動も生まれ持って来たものがあると思うんですよね。走るのが早いって、そりゃ練習で多少は早くはなるかも知れませんが、早い奴は早い、遅い奴は遅いって決まっているように思うんです。

 

 その生まれ持ってきたもので、優劣を決めるなんてひどいと思いませんか。

 

 それも体育祭なんて、みんなの前で、それも友達の家族も見ている前で、それ以上に憧れの女の子の前で無様な姿をさらさないといけないんです。こんなのひどいと思いませんか。

 

 余談ですが、体育祭になると、急に目立つ奴っていたと思いません?そうなんです、そういう奴って、学校指定のジャージとか着ていないんですよね。カッコいい、大手のスポーツ用品の会社のロゴが入ったジャージを着ていると思いませんか。私なんか、いつも学校指定の青や緑のジャージでしたよ。

 

 ああ……

 

 

 話を戻しましょう。

 

 また性格も、よく言いますと、大人しく、あまり人と接することのない、目立たない少年でした。

 

 まだその頃にはネクラとか、ヲタクといった言葉はありませんでしたが、友人も少なく、学校が終わると一目散に家に帰って、タミヤの戦車を凝りに凝りまくって作り続ける、今でいうところの、ネクラでヲタクの少年でありました。

 

 つまり、纏めますと、

 

 神村少年は、チビでデブで、音痴で、運動音痴で、ネクラでヲタクの少年でありまして、それがコンプレックスの塊、それはもう、ガチガチの岩石のような塊の少年でありました。

 

 そのような神村少年でありましたので、男女交際に憧れと願望は抱くものの、実は女の子に声をかけることはおろか、話をするなんてとんでもない憧れと願望なのでありました。

 

 そんな神村少年が中学二年の頃に聞きました『南こうせつかぐや姫』は、実際の神村少年には考えられない世界なのでありました。

 

 その当時、テレビでは確か「スター誕生」とかいう番組があり、中三トリオなどというアイドル歌手がいたのではありますが、神村少年はそのような華やかな世界には見向きもせず、フォークソングの暗く切ない世界に憧れたのであります。

 

 神村少年は『南こうせつかぐや姫』以外にも、『吉田拓郎』、『井上陽水』、『山本コータロー』などなどを聴きまくり、『ガロ』の『学生街の喫茶店』に憧れ、『ESP』の『さよなら』に涙していたのでした。

 

 そして、そのような世界に出てくる神村少年の姿は常に萩原健一(ショーケン)であり、自分の容姿は押し入れの中にしまい込んで、東京の街の裏路地をジーパンのポケットに手を突っ込んで、世の中の不条理に下を向いて歩く萩原健一のような神村少年の姿を想像していたのであります。

 

 そして神村少年はその夢を実現に移すべく、

ある日、母親に

 

「俺、一度、日本の首都を見てきたい」

 

訳の分からないことを告げたのでした。