東京というところ-7(遠い記憶の中に)
おはようございます。
地獄のような月曜日の仕事を何とか乗り越えるには乗り越えましたが、今日を含めて、やりたくない仕事を、まだ四日もやらないといけません。ああ、早く定年になってほしい。早く爺になりたいと思う今朝なのでした。
さて、そういうことで神村親子の東京での下宿探しが始まったのでありますが、そう言えば、最近では下宿という言葉も聞かなくなりましたね。最近の学生さんはなんと言っているのでしょうか?
まあ、それはいいとして、右も左もわからない東京での下宿探しは、雲をつかむようなもんでありました。仕方が無いので、神村少年は確か『アパートニュース』のような雑誌を買って情報を集めたのでしたが、専門学校のある代々木周辺は全体的に家賃が高い、安い物件もあるが、どうも環境が劣悪みたい。
という訳で、なぜそうしたのかは今では思い出せませんが、神村親子は高田馬場に行こうということになりました。
高田馬場の学生専門の下宿紹介所のようなところに行って相談すると、比較的環境がよくて、安い下宿となると、西部新宿線沿線で探してみてはとアドバイスを受けて、これもなぜ見つけたのかはもう忘れましたが、杉並の井草で一軒の下宿を見つけたのでありました。
神村親子はさっそく部屋を見に行くことにしたのであります。
高田馬場よりいくつかの駅を過ぎて、下井草という駅で降りて、そこから歩いて十分ほどのところにその下宿はありました。
その下宿屋さんは母屋の二階にいくつかの部屋がありましたが、私が紹介を受けたのは、母屋の隣に車庫があり、その車庫の二階ある部屋でした。
大家さんに案内されて、その部屋に入ると、そこは私の憧れていた、三畳一間、天井には裸電球、まさに私の憧れの部屋なのです。
部屋の奥は窓になっております。奥といっても三畳の部屋です。入口からすでに手が届きそうな奥なのですが。とにかく窓があるのです。
あの窓を開けると、窓の下には
神田川。
私はさっそく窓を開けてみました。
しかし、そこには神田川は無く、
窓の下は
大根畑でした。
いいですか、東京の杉並ですよ、その当時は、まだ大根畑があったのです。今でもあるかも知れませんが、その当時はまだまだたくさんの畑が部屋の周りにあったのです。
余談になりますが、その年の夏、夏休みを実家で過ごした私が、夏休みが終わって下宿に帰ると、その大根畑には二軒の建売の家が建っておりました。これから数年後にはバブルと言われる時代になるのですが、その始まりだったのかも知れません。
神村少年は窓の下に神田川が流れていないことに、少々不満はあったのですが、神田川がどこを流れているのかもわかりませんでしたし、実は初めての東京で、歩き疲れたこともあり、この部屋に決めたのでありました。
またまた余談でありますが、神村親子がこの部屋にたどり着き、部屋を決めた時にはすでに陽は西に傾いており、今夜の宿を探さないといけない時間になっていたのでありましたが、大家さんが、今からホテルを探すのは大変だからといって、その部屋で一晩泊まっていい、布団はよういすると言ってくださいました。何とも心暖かい大家さんなのでした。
神村少年の東京での生活は、三畳一間で裸電球、そして窓の下には大根畑のこの部屋で始まることになったのであります。
これから始まる東京生活に胸を躍らせながらその晩は寝たのであります。
翌朝、一晩の御礼を言って、また高田馬場に戻ったのですが、駅の近くを、汚い川が流れており、やっぱり東京の川は汚いなと神村少年は見つめていたのでありましたが、その川が、神田川であることを知ったのは、それから随分後のことでありました。