伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ-10(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 今朝も静かな朝です。

 

 さて、生活費は自分で稼ぐことを約束して、東京に出てきた神村少年は、毎日、毎日、アルバイトに明け暮れる生活をしていたわけでありますが、当時、アルバイトでどれくらい稼いでいたのかを思い出してみますと、当時のアルバイトの時給が、たしか三百五十円から五百円くらいの間はなかったかと思います。

 

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 ですから神村少年が一か月間で稼いでいたのは、たしか三万円から四万円くらいではなかったかと思います。

 

 しかし当時の三万円から四万円は、今の六万円から八万円、もしかしたら、七万五千円から十万円くらいの価値があったのではないかと思います。

 

 そして、当時の物価はと申しますと、これも私の記憶で申し訳ありませんが、銭湯が百五十円、今はおそらく四百円以上になっているのではないでしょうか。また珈琲一杯が三百円、映画が千三百円、瓶のコーラ(当時はまだペットボトルはありませんでした)が五十円、そして外食をしますと、最低でも三百円程度は必要で、立ち食いソバも二百五十円程度はしていたと思います。

 

 そういう状況でしたので、アルバイトで生活していた神村少年の暮らしは、決して余裕のあるものではございませんでした。

 

 当時の神村少年は一日の生活費を五百円と決めておりました。これは断っておきますが、一食五百円のワンコインではなく、一日の全ての生活費(休日に遊びに出た時の交通費や、米代、その他の必要品をのぞいて)を五百円と決めておりました。

 

 当時新宿に、たしか「三平ストアー」あるいは「サンパーク」という名の小さな(失礼)デパートのようなお店があり、そのレストランでお昼の日替わり定食が三百円程度ではなかったかと思います。

 

 つまり、その三百円の日替わり定食を食べて、銭湯に行くと、その日の生活費の残りは五十円しかなく、夕食は五十円で食べないといけないのでした。

 

 夏の暑い時期には、五十円のアイスキャンディを食べると、夕食のおかずは塩だけとなるのでした。

 

 余談ですが、当時のアイスキャンディのことは、よく覚えてはいませんが、あのガリガリ君が登場するのは、もう少し後のこととなります。

 

 ですので、神村少年の一日は、朝は食べない。学校が終わると、みなさん「ビッグロシア」というパンをご存じですか?今でもあるかも知れませんが、大きなコッペパンにねっとりとした砂糖を塗りたくった「ビッグロシア」というパンがありまして、そのパンを二日間、あるいは三日間の昼食にしていました。

 

 夕食はと言いますと、今でもあります丸美屋の麻婆豆腐の素(百二十円)と豆腐一丁(四十円)を買って、下宿で麻婆丼を作っていました。

 

 神村少年の持ってい炊飯器は、三合炊きでしたので、三合のご飯が炊けたお釜の中に直接、麻婆豆腐をいれて、三合のご飯を一度に全部食べていました。

 

 毎日、毎日、麻婆豆腐の生活でしたが、そうすることで、毎日銭湯に行くことが出来ました。毎日食べ続けていた、丸美屋の麻婆豆腐は、今でも時々作っていただきますが、麻婆豆腐を食べると、その度に当時のことを懐かしく思い出します。

 

 神村少年は外食もしていたのですが、外食で一番の思い出は、西部新宿線の井荻の駅前にありました「みかちゃん食堂」であります。

 

 昼食をビッグロシアにして銭湯に入っても、三百円程度は余裕がありますので、神村少年はよく「みかちゃん食堂」を利用しておりました。

 

 しかし、なんせ三百円ですので、豪華な夕食は無理でございます。

 

 神村少年の予算で食べることが出来たのは、玉子焼き定食(三百円)とニラ玉定食(三百三十円)でした。

 

 ですから、時には三百三十円のニラ玉定食にするか、あるいは三百円の玉子焼き定食に三十円の納豆を付けるかが、神村少年の最大の悩みとなる日もございました。

 

 またまた余談ではありますが、私は高校を卒業するまでは、納豆を食べること出来ませんでしたが、東京での貧乏生活のおかげで納豆が大好きになりました。今でも納豆は大好きなのでありますが、昨年脳梗塞を患ってから、病院でいただいている薬の関係で納豆を食べることが出来なくなりました。

 

 いつでしたか、毎日、毎日、神村少年は敵のように玉子焼き定食を食べていたのでありますが、ある日、食堂のおばちゃんが

 

「たまには栄養を付けないといけないよ」

 

と言って「アジフライ」をサービスで付けてくれました。

 

もちろん私はありがたくいただいたのでありますが、もともと魚嫌いの私は「アジフライ」を食べたのは、後にも先にもこの一回限りなのであります。

 

みかちゃん食堂」の皆様、大変お世話になりました。

 

 さて、神村少年の東京生活でのその他の思い出の味となりますと、新宿にありました「アカシヤ」という洋食店でのロールキャベツ(はっきりとは覚えておりませんが、ライス付きで三百円程度ではなかったかとおもいます。いや頻繁に食べてはいませんので、もう少し高価だったかも……)、それから新宿の紀伊国屋書店の地下にありました餃子の専門店で、たしか二百九十円で餃子が二十個以上出てくる餃子定食、それから新宿西口の小便横丁(たしかみんなそう呼んでいたと思います)の天丼。天丼と申しましても、乗っている天ぷらは、エビやアナゴではなく、ほとんど小麦粉の中にときどき玉ねぎが入っている、まさに匠の技、芸術的なころもだけのかき揚げがドーン乗った天丼でありましたが、神村少年の胃袋を満たすには十分でございました。

 

 そのほか、あちらこちらの立ち食いソバ、新宿の伊勢丹の近くの焼きそばなど、今ではB級グルメとして取り上げられるものばかりが、神村少年の食生活の中心なのでありました。

 

 そうそう、吉野家の牛丼もありましが、神村少年は牛丼の頼み方がわからず、お店に入ることが出来なかったのであります。もちろん今では何を悩むことなく入れますよ。

 

 今から思いますと、とても懐かしい、毎日でありました。