伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ(遠い記憶の中に)

 おはようございます

 

 台風も過ぎ去り、いよいよ秋の到来ですね。時間が過ぎ去っていくのは実に早く、歳のせいか、一年、一年が実に早く感じます。

 

 しかし気が付いてみれば、私も六十歳の声を聞く年になりました。皆さん六十歳ですよ。一口に六十歳といいますが、私は概ね六十年(概ねでなくても六十年)という年月を生きてきたことになります。

f:id:kamurahatuya:20160921033106j:image

 しかし思い出してみると、小学校を卒業したのは一か月前のような気がしますし、中学や高校を卒業したのは先々週、仕事を始めたのは、今週のはじめみたいな感じで、実に時間の経つのは早いもんだと、あらためて関心してしまいます。

 実際には仕事に就いて、なんと四十年の日々が流れているのであります。ですから考えてみると実にいろんなことがありましたが、何とか続けてまいりました。

 そもそも、私は今の仕事に仕事をやりたくて就いたわけではありません。

 

 小学校、中学校の頃、私の夢といいますと、調理人、それも和食の調理人になることでありました。

 ですから親にも、自分は将来調理人になりたいと話しており、親もその気になって、高校卒業後は、東京の料亭での修行をさせたいと、知り合いの料理屋に頼んでいたくらいでした。私も私で、高校を出たら、東京で板場の修行をするのだと心に決めており、その決心を後押ししたのが、高校の時に見たテレビドラマ『前略、おふくろ様』でありました。

 ほとんどの皆様は『前略、おふくろ様』なんてご存じないかと思いますが、中には覚えていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。

 ドラマは萩原健一が主人公の三郎を演じておりました。三郎は故郷の山形から東京出てきて、東京は深川にあります料亭「分田上」で板場の修行をしており、その三郎を取り巻く人々の人情ドラマでありました。

 私はその三郎が大好きで、また「分田上」の板場がこれから自分が修行に行く料亭の板場と重ねてドラマを見ておりました。そして自分も高校を卒業したら、三郎のように働くんだと思っていたのであります。実際当時の萩原健一はカッコよく、私はあこがれておりました。

 

 しかし、結果的には私は調理人にはなりませんでした。というのは高校三年の春ではなかったかと思いますが、私は将来に備えて、親の知り合いの料理屋でアルバイトをしておりました。そこの調理人から

「あんた、高校を出たら、東京に板場の修行に行くんだってな」

「はい、ここのおかみさんに頼んであります」

「修行はつらいけど頑張りなさいよ」

「ええ」

「まあ、はじめは魚の下ごしらえからだろうな、一年間は毎日、毎日魚の頭落としだな」

 

えっ!魚。

 

 実は私は小さな頃から魚が大嫌いで、食べることはおろか、触るのも嫌でございました。そのころ私が食べることが出来る魚と申しますと、ちりめんじゃこ(一番小さいやつ)に、かまぼこくらいで、焼き魚も煮魚もお刺身も、全く食べることが出来ませんでした。

 今でこそ、食卓に魚出てくると、申し訳程度に箸を付けますが、基本的には魚料理は頂きません。

 魚の何が嫌いかと申しますと、あの匂いでございます。正直言いますと、スーパーに買い物に行きましても、鮮魚売り場の前に行くとあの匂いに眩暈がしそうになってしまうくらいでございます。

 そんなわけでありましたので、一年間も魚を触るのかと思いますと、私は気が遠くなり、将来に恐ろしいほどの絶望感を感じまして、ある日突然、

 

「調理人や~めた」

 

 宣言したのでありました。

 

 突然の調理人辞めたの宣言は、英国のEU離脱よりも衝撃を世の中に与え、親は驚き庭駆けまわり、周りの人からは石を投げられたのですが、私の調理人辞めた決心は、石より硬く、結局、親も周りの人も諦めたのでございました。

 さて調理人になることはあきらめた私でしたが、しかしドラマ『前略、おふくろ様』の世界への憧れは消すことが出来ず、東京で暮らしたいと思うようになりました。明日は東京へのこのこと出かけるしたことなどをお話したいと思います。