酔死体 佐良利男の暗闇
彼とはもうかれこれ二十年からの付き合いになる。
思えば随分と長い間、彼とは仕事をしてきたものだ。
彼の名前は、佐良利男、あと数年もすれば定年退職を迎える五十五歳。小さな機械部品メーカーの営業係長である。
利男と同期の者はみなそれぞれのセクションで部長クラスに昇進している中で、利男はもうすぐ定年であるにも関わらず、役職は係長のままである。おそらく利男は定年まで係長のままであると俺は思っている。
また当然ではあるが、利男の上司は利男と同期入社の同僚か、利男より年が若い社員である。
相棒の俺が言うのもなんだが、はっきり言って利男は仕事が出来る人間では無い。
利男とはもう二十年以上の時間を一緒に仕事をしてきたが、利男の責任で大きな受注を何回も逃してしまったことを俺は知っている。その度に利男は若い上司からこっぴどく叱られるのであるが、当の本人はそんなことは全く気にはしていない。
またクレーム処理となると、それはもう最悪である。利男がクレーム処理にあたると、クレームをつけているお客さんの怒りを鎮めるどころか、小さな火に、もっと燃えろとばかりに油をどんどん注いで、
「どうもすみませんでした。以後は再発に気をつけますので、今回は大目に……」で終わる程度の軽微なクレームさえも、どんどん大火事にして、最後には営業部長まで引っ張り出してしまったことも、一度や二度ではない。
その度に利男は始末書を書くのであるが、始末書を書くことが、会社勤めをしている者にとってどれくらい悪いことなのかを利男は理解していない。それどころか若い者に
「始末書を書くことがあったら、私に相談しなさい。書き方を指導するから」
などと曰わっているから始末に終えない。
おそらく社内で、誰が一番ダメ社員なのかの投票があったとすると、利男がダントツでトップになることは間違い無いと俺は思っているし、誰もそれを否定はしないと思っている。
だからここ数年、利男は重要な仕事は任せて貰ってはいない。そのうえお情けで係長という役職はもらってはいるが、利男の下には部下はいない。そのうえ誰も利男が係長で有ることを知ってはいない。
利男の席は営業所の一番隅の書庫の前にあるので、ひどい奴になると、利男の仕事は書庫の管理係りのおじさんであると思っている者もいるくらいである。
利男の机の上にはパソコンと電話が1台あるが、電話が鳴ることは無い。パソコンもソリティアとマリンスイーパー以外のソフトが動いているところを見たことはない。はっきり言って、本人はおそらく気がついてはいないと思うが、利男はこの営業所の厄介者であることには間違いない。利男は仕事に関してはダメ人間なのである。いや、これは間違っていた、仕事に関してはではなく、仕事と生活に関してはであった。
しかし、しかしである。世の中というものは分からないもので、利男は仕事は出来ないが、利男は仕事が大好き人間でもある。俺は利男との付き合いが長いし、この営業所でも結構長くお世話になっているので、よくわかるが、利男ほど仕事が好きな社員はいないと思っている。
いや、これにも多少のあやまりがある。俺は利男の相棒となって随分になるが、ずっと利男は仕事が好きだと思っていた。しかし最近になってやっと実は利男は仕事がすきなのでなく、仕事場が好き、あるいは一人でいるのが好きなのでは無いかと思うようになった。
利男の出勤時間は恐ろしく早く、そしてまた帰宅時間は恐ろしく遅い。
利男が勤めている会社の営業所は東京駅の八重洲口を出て、ブックセンターの横の狭い通りを八丁堀方向に、十分ほど歩いたところにある雑居ビルの中にある。営業所は午前八時四十五分から仕事が始まる。
また俺の知るところでは、利男は三十歳を過ぎた頃に結婚をしたらしい。相手は七歳年上の芳子というバツイチの女性である。もちろん利男は初婚であった。
結婚後は、杉並区内で小さなアパートを借りて二人で暮らしていたらしいが、俺と付き合い始めた二十年ほど前に、中央線、高雄駅の郊外に三LDK、築十五年の小さな中古住宅を三十年のローンを組んで購入した。
毎日、高尾の自宅から駅まで自転車で二十分、高尾駅から電車に乗って東京駅まで約一時間。そこから歩いて十分。利男の通勤時間は自宅を出てからおおよそ一時間半から二時間ということになる。まあ、都会で暮らすサラリーマンの方々にとっては、それほどびっくりする時間では無いかもしれないが……。
そしてなんと利男は毎日、勤務開始の午前八時四十五分の二時間前には出勤する。
利男は自宅を午前五時前には出て、約二時間の通勤時間をかけて、会社の勤務開始時間の二時間前の午前七時前には、雑居ビルの警備室で事務所の鍵を受け取るのである。
当然、相棒の俺も午前五時前から利男と行動をともにしている。
利男は誰よりも早く営業所に出勤しているのではあるが、別に仕事をするわけではない。第一やらなければいけない仕事もそんなには無い。利男は毎日二時間早く出勤して、ただ新聞を見たり、窓の外を眺めたりして二時間を過ごす。時には駅のゴミ箱から仕入れた週刊誌を読むこともある。しかしそれは決して仕事ではない。利男はただただ一人の時間を過ごしているのである。その間も俺も利男に付き合ってボーッとした時間を過ごすことになる。
また利男はこの営業所の中で、一番遅く帰る。
利男の会社は珍しく残業することを良しとはしていない。どちらかと言えば、残業はその日の仕事計画が悪かったという結果であって、残業することは悪であるとしている。であるから、ほとんどの社員は、よほどのことがない限り、定時の午後五時十五分には帰っていく。
その中で、利男は毎日午後九時過ぎまで事務所に残っている。会社も定時退勤を推奨してはいるが、利男が残業代を請求することもないので黙認している。
ここでも利男は別に仕事をしているわけではない。パソコンのソリティアやマインスイーパーに興じていたり、窓の外の夜景を見たりして九時過ぎまで時間を潰しているのである。当然、相棒の俺もそれに付き合っている。
毎朝一番に警備室から鍵を受け取るのは利男であり、そして毎晩最後に警備室に鍵を返すのも利男なのである。
というわけで、利男は仕事が好きなのでは無くて、一人が好きなのでは無いかと思うようになった。それは利男の生活とも関係があるような気がしている。
毎晩決まって午後九時過ぎに警備室に鍵を返すと、利男は真っすぐに自宅へ向かう。決して寄り道などはしない。俺は利男ともう二十年近く付き合っているが、営業所の懇親会などの飲み会がある時以外に、利男が寄り道をしたことを見たことが無い。
警備室に鍵を返してビルを出てから、朝出勤してきた道を反対に徒歩で東京駅まで戻り、そこから快速に乗っても、自宅に着くのは夜の十一時を回った頃である。
当然、妻の芳子はもう夢の中である。しかし利男にとっては芳子が寝てくれている方が助かる。というのも芳子は利男の顔を見れば、利男の給料が安いために住宅ローンの返済もままならないくらい生活が苦しい事をなじるのである。利男は給料が安いという事実に反論sることも出来ず、に、よしこの罵詈雑言と罵りの総攻撃を受けても、耐えるしか手が無いのである。であるから、帰宅して玄関のドアを開けた時に芳子の寝室から、まるでゴジラの雄叫びのような鼾が聞こえてくると、利男は安心して玄関を入ることができるのであった。おそらく利男は芳子と一緒にいるのが嫌なのだと俺は思っている。
利男は帰宅するとシャワーを浴びて、簡単に夕食を済ますと、酒を呑んで寝る。そして翌朝の五時には起きて会社に行く。
多分、利男は芳子のいる家にはいたくない。かと言って行く所が無い。だから朝早くから、夜の遅くまで会社で過ごしているのではないかと、最近俺は思うようになった。
また利男は楽しみの無い男である。俺は利男と毎日のように付き合っているが、利男が映画を見に行くとか、スポーツジムで身体を鍛えるとか、何か楽しみというものを持ったという記憶がない。
時には、そう俺と出会った頃に、当に二、三回ほど利男が定時で帰ったことがあったが、会社を定時で帰っても、家に着くのはいつもと同じ夜中だった。定時で会社を退勤してから、自宅に着くまでの時間を、利男は何をしていたのか?そんなことは誰も知らなし、また誰も知りたくも無かった。
俺には一体何が楽しいのか分からない利男の毎日である。
そのつまらない利男の毎日に俺は付き合っている。朝起きて着替えてから、家に変えて着替えるまでのほとんどの、いや全ての時間を利男と過ごしている。利男とはトイレも一緒なのである。利男と離れるのは、利男が家に帰って、シャワーを浴びて、酒を呑んで寝るている間の時間だけであり、その時間、俺は一日の疲れを癒やすために洋服ダンスの中で過ごすのである。
俺が利男と初めて出会ったのは、もう二十年も前のことである。
その日も俺は紳士服の安売り量販店のショーケースの中から、店にやってくる客を見ていた。
だいたい、俺がいた紳士服の安売り量販店というところには、金持ちはやって来ない。そもそも金を持っている奴は、オーダーメードの高級紳士服店に行くからだ。
確かとってもいい天気の日だった。客は少なかった。俺はショーケースの中で暇を持て余して、少々眠気もついてウトウトとしていたいた。今日はこのまま一日が終わるのかななんて考えていたときだった。
夕方近くになって、小柄でちょっと太めの、いやはっきり言って中年太りが始まって、下腹がでっぷりと出て、少々頭も髪の毛も怪しくなってきた不細工な男と、大柄で、派手なワンピースを着た女の二人連れが店に入って来た。俺は二人が夫婦者であることはすぐに分かった。俺の感と言うやつだ。
大柄な女は、店に入るとすぐに俺がいた店で最入社してきた中年の女性の店員をつかまえて
「とにかく一番安いのでいいわ。こいつには高いスーツなんて必要ないの。だいたい安月給取りなんだから、高いスーツは必要ないの。まあスーツが仕事をして、高い給料を貰ってくれるのであれば、高いスーツを買うけどね。現実にはスーツは仕事をしないもんね。色も柄もサイズもどうでもいいわ。ときかく着ることができたらいいのよ。着ることが出来る物で一番安いのでいいわ」
と大声で、大柄な女が一人でわめいていた。一緒に来た男は黙ってそれを聞いていた。
俺はなんて夫婦だと思いがら、俺ならあんな女を絶対に嫁にはしないねと思っていた。
結局、ずんぐりむっくりの中年太り野郎は、サイズはかなり大きいが、売れ残りの特売のスーツを買うことになった。
大きいサイズのスーツを試着した男の姿は、大きな子どもの七五三参りのようであり、その上頭の髪の毛が薄いと来たものだから、俺は笑いをこらえるのに必死だった事を覚えている。
新入りの女性の店員が
「ワイシャツも一緒にいかがですか?」と店のマニュアル通りに勧めている。
大柄な女は
「ワイシャツなら家に三枚もあるはわ、ねえ、まだ着れるわよね?」と男に聞いている。
するとずんぐりむっくりの七五三野郎が
「でも、もう何年も着ているし、最近首周りがきつくなったし、しわくちゃだし……たまには新しいのを……」
「何言ってんのよ、そんなセリフは稼ぎのいい人が言うセリフだよ。だいたい安月給のくせして、ブクブク太るから首周りがきつくなるのよ。運動でもして痩せたらいいのよ」
「……」
新入りの店員が
「今ならスーツとセットでお安くなりますよ。後からワイシャツだけお買いになるより、ずっとお得になりますよ」
「本当にお得なの、それなら、そのワイシャツの分だけまけてちょうだいよ」
「申し訳ございません。一緒に購入していただかないと……ワイシャツ分の値引き出来ませんので」
「そのワゴンの二枚で千円のでいいわ、ねえあなた」
「……」
七五三野郎が小さくうなずく。
新入りの店員が今度は
「ネクタイはいかがですか?ネクタイもセットでお安くなりますよ」
「ネクタイなんて、家に確か二、三本あるじゃない。ネクタイならサイズも無いから、首周りもきつくないでしょ。ねえ、あなた」
「いやぁ、新しいネクタイもあってもいいかな……」
「必要ない、必要ない」
大柄な女がそう言うと
「そんなことはございませんわ、ネクタイは何本あってもいいものですよ」
新入りの店員も負けてはいない。さっきはワイシャツを買わせるのに失敗しているので、今度はネクタイで仇を取ろうとしているようだ。まだこの店に入って間もないので、何とか成績をあげようと張り切っているようだった。
新入りの店員は、ネクタイの並んだ商品棚から、赤い花柄のネクタイを選ぶと
「これなんかいかがでしょう?」
と七五三野郎と大柄な女に見せている。すると女が
「こんな派手なネクタイ、こいつには似合わないわ。もっと地味なのはないの」
すると新入り店員は、つかつかと俺が休んでいたショーケースに近づいて来たかと思うと、俺を掴んでショーケースから取り出すと
「そうしますと、これなんかいかがでしょう?シックなネクタイでいいかと思いますよ」
と簡単な結び目を作って、七五三野郎を大柄女に背を向けるように位置を替えてから、七五三野郎の首元にあてがった。七五三野郎に背を向けられた大柄女は他のネクタイを物色し始めた。
確かに俺は茶色の布地に小さな水玉模様の地味なネクタイだ。でも、俺はこんな七五三野郎に買われることはないだろうと安心をしていた。なんつったって俺はこの店で一番、二番を競う、一本三万円もする高級ネクタイだ。さっきこの夫婦が買ったスーツと同じくらいの値段がするんだ。こんな七五三野郎にはもったいない。第一あの横柄で大柄女が買うわけが無い。
しかしなんだこの野郎、随分とスケベそうに鼻の下を伸ばしてやがる。
というのも、俺が言うのも何だが、この七五三野郎夫婦の接客をしている新入りの女性は、そうだな年の頃はおそらく七五三野郎と同じくらいではあるが、ポニーテールに纏めた長い髪がと小顔が魅力的な、とても綺麗な店員だった。スタイルも七五三野郎とは違って、スラっと背も高くスタイル抜群だった。
そのスタイル抜群の綺麗な新入りの店員は、七五三野郎にピッタリと近づいて、七五三野郎を意味深に見つめている。七五三野郎はすっかりごきげんになっているようだった。それに気がついたのか、大柄女が
「そんなに高いネクタイはいらないわ。もう少し安いのはないの?」
と叫んだ。これには多少のヤキモチも入っていたように思う。
俺も、そうだそうだ、こんな七五三野郎に俺のような高級ネクタイはもったいないぜと思っていた。ところがだ
「よくお似合いですわ、このネクタイ」
と新入りのスタイル抜群、美形店員がちょっと声を大きくして言うと
「このネクタイを下さい」
と七五三野郎が新入りの店員に向かって言った。俺はえっ、まさかって思ったね。大柄女も
「こんな高いネクタイ、あなたにはもったいないわ。もう少し安いのにしなさいよ」
と言っている。しかし七五三野郎は譲らない
「いや、このネクタイをいただきます」
俺は七五三野郎の気が狂ったかと思ったね。だって今まで何を言われても黙っていたのに、急に俺を買うって言い出したんだ。
すかさず大柄女が
「何言ってんのよ。こんな高いネクタイ買えるわけないでしょ」
「いや買います。あのすみません、このネクタイを下さい」
新入りの店員はちょっと驚いた様子で
「あっ、はい、ありがとうございます。あの本当によろしいんですか?」
大柄女が
「ちょっと待ってよ、そんな高いネクタイ、誰が払うのよ?」
すると七五三野郎が
「私が払います。いま、私がお金を払って、このネクタイをいただきます」
大柄女が
「あんた、どこにそんなお金を持っているのよ」
「持っているさ、私だって少しくらいは持っているさ。このネクタイは私が払います。スーツの支払いはお願いしますね」
俺は意外な展開にびっくりしたね。そして、これが俺と利男の付き合いの始まりだった。
安売りの紳士服量販店のいかにも安っぽい袋に入れられて、その日の内に安売りのワイシャツ達と一緒に、俺は利男の家の一員となった。スーツはズボンの裾上げがあるので、後日の到着になることになった。俺は利男の家の洋服ダンスに吊り下げられてびっくりした。なんせ利男の洋服ダンスの中にはスーツは二着、白いワイシャツが三枚、それにもっとびっくりしたのは、ネクタイは赤と青と黄色のネクタイが三本。信号機かと俺は思ってしまった。今まで利男はこの赤、青、黄色のネクタイを代わる代わる締めて仕事に行っていたようだ。だからどいつも疲れきったてぐったりとしていた。
ネクタイは正確に言うと、もう二本あった。白と黒の二本である。だいたいこいつらの出番は少ない。特に黒の出番となる時はあまりいい話では無い。だからタンスの隅でひっそりとしていた。白ときたら今まで出番が無かったとみえて、まだビニールの袋に入っている。おそらくこれからも出番が無いと俺は思って痛い。
俺はそいつらと並んでタンスの棚に並べられた、俺は隣でぐったりしている赤、青、黄色と一緒に七五三野郎の首から下がるのか思うと、「ああ、俺のネクタイ人生も終わったな」と思っていた。
俺はその晩、赤、青、黄色から、七五三野郎が、佐良利男という名前で、大柄女は利男の奥さんの芳子であることを聞き出した。そしてまた利男は、東京都青梅市の生まれで、東京の三流大学を卒業して、今の会社に入ったが、仕事の出来ない男として厄介者扱いされていること、それから利男は遊ぶことを知らない、つまらない男であることを聞かされた。
赤、青、黄色の信号機ネクタイたちは、利男は何の楽しみも持っていない男だと話してくれたが、それとは別に悪い癖があることも同時に話してくれた。
それはもしかしたら利男の唯一の楽しみかも知れない酒の話であった。
利男は毎日仕事が終わって自宅に帰ってから、酒を呑むらしく、自宅での酒は問題ないが、外で呑む酒は非常に問題で大変酒癖が悪いということだった。
利男は大学を卒業すると今の会社に期待の若手営業マンとして入社してきた。約一年間の新人研修を終えると、利男はこの東京本社の営業部に配属になった。配属当初から成績はあまりよくなかったようであるが、まあ大器晩成ということもあると思われていたらしい。
ある年の忘年会での事だった。
一次会の忘年会で大いに盛り上がった営業部のメンバーは部長と一緒にカラオケに行くことになった。利男は今までカラオケなどには行ったことも無かったが、みんなに誘われてカラオケに一緒に行くことになった。
利男はあまり歌が得意な方ではく、初めはおとなしくしていたが、みんなに勧められて一曲歌うことになったらしく、生まれて初めてのカラオケとなった。利男が選曲したのは「青い山脈」出会った。
ネクタイを頭に鉢巻のように巻いて、張り切って歌い出したのであるが、その歌のひどいことと言ったらなかったらしく、まわりのみんなは熱唱する利男を無視しておしゃべりに花を咲かせていたらしい。
すると突然、利男はツカツカと部長の前に立つと、マイクでボカッと部長の頭を殴りつけ
「黙って聞け!」
と叫んで、歌を続けたらしい。当然、部長はカンカンになり、その場は白けきってしまったが、そんなことはお構い無しに利男は、その後もマイクを独り占めして離さなくなり、一人で「青い山脈」を十数回歌い続けたということである。
このカラオケ事件で部長から睨まれることになった利男は間もなく営業部から茨城の工場に転勤になった。
酒の失敗で転勤になったのではあるが、一応本社営業部からの転勤であったので、工場は総務係として利男を受け入れた。
工場に転勤になってすぐに総務係の歓迎会があったのであるが、酒が入った利男はまた、歓迎会の席で同じ総務係の女子事務員に
「私は本社の重役から見込まれて工場に来ている。私は将来会社のトップになることは間違い無い。私の言うことを聞いて、今晩一晩私と一緒に過ごしてくれたら将来は悪いようにはしない。どうだいこれからホテルに行かないか」と言って女の事務員を口説き、その上その場で女の事務員のお尻を触ってキスをしようとしたらしい。当然女の事務員はセクハラだと喚き散らして大騒ぎになった。その結果、利男は数ヶ月でまた本社のある東京営業に戻された。
東京営業所に戻されれて、散々絞られた利男はその後は外で酒を呑むことをしなくなり、真面目に働いていたらしく、数年後には知人の紹介で芳子さんと結婚することになった。
それ以降利男は酒の席を避けるようになった。
俺は赤、青、黄色から利男の酒癖の悪さを聞かされた後
「いいかい、利男には酒を呑ませたらいけないよ。利男が酒を呑みそうになったら、ギュッと首を締めて、呑めないようにしないといけないんだ。あんたはまだ利男の酒癖の悪さを知らないけど、そりゃ大変なんだから、絶対に呑ませてはいけないよ」
と言い聞かされた。
俺はそんな利男の首からぶら下がって、明日から暮らすのかと思うと気が遠くなりそうになった事を思い出す。しかし、ネクタイは俺と赤、青、黄色の四本あるので、まあ代わる代わるに務めたとしても、一週間に一度か二度であるので、仕方が無いかと諦めていた。
しかし現実はそんなに甘くは無かった。翌朝から俺は毎日、利男の首にぶら下がることになった。
利男はスタイル抜群の綺麗な店員にじっと見つめられながら勧められた上に、自分のへそくりで買った俺がよほど気に入ったらしく、翌朝から毎日俺を選ぶようになった。それから今日まで毎日俺は利男の首にぶら下がっているんだ。あちらこちらが擦り切れてきたし、もういい加減疲れたよ。
しかし、俺と付き合うようになってから、利男は酒を呑んで失敗をしなくなった。と言うか、利男は酒の席を避けるようになった。誘われても呑みに行こうとはしなくなった。
しかし、一度だけ俺は利男がまたまた酒で会社に迷惑をかけたことを知っている。
それは利男の首にぶら下がるようになってしばらくしてからのことだった。
その頃には利男はまだ数社の顧客を任されていた。
ある日その顧客の接待を利男が任されることになった。
利男の会社ではお客さんの接待をしないといけない時には、営業部長が会社のカードを営業員に渡して、そのカードで必要な費用を払うことになっていた。
その日も利男は部長からカードを受け取り、お客さんを会社の近くの安い居酒屋で接待して丁寧にお客さんを帰らせて接待を終わらせた。
利男はそこで帰れば何の問題も無かったのであるが、酒が入った利男は気が大きくなったらしく、お客さんを帰した後、赤坂の高級レストランで食事をし、そのうえ赤坂の高級ホテルに泊まったのであった。そしてその呑み代とホテルの宿泊費を全て会社のカード支払ったのである。その上、カード会社から五十万円をキャッシングしていたのである。
当然、請求は会社に来るので、すぐにバレて大目玉となったことは言うまでも無い。
その夜、利男が顧客との接待以外使った、食事代とホテルの費用とキャシングした五十万円は、利男の毎月の給料から返すことになったのでるが、なぜそのような事をしたのかは、いくら聞かれても利男は話すことは無かった。そしてキャッシングした五十万円を何に使ったのかは
「忘れました」
の一点張りで、決して誰にも使いみちを話すことは無かった。
実は俺はこの時利男と一晩付き合っていたので、一部始終を知ってはいたが、当然ネクタイの俺は誰にも話すことは出来なかった。
会社の接待費使い込み事件から間もなく、利男の席は事務所の隅の書庫の間に移されて、利男の仕事は無くなり、お情けで貰った係長の名札をつけて、利男と俺は暇な毎日を過ごすことになった。
利男は酒を呑むのは仕事が終わって家に帰ってから、寝る前に呑むだけになった。寝る前に焼酎をストレートで一気に呑んで酔が回る前に寝てしまう。それが利男の酒の呑み方になった。
俺は利男が今までの酒の失敗を反省して、酒は寝る前だけにして、外で呑むのを辞めたのだと思っていた。
その日も利男はいつもの様に一人で事務所に残っていた。
夜の九時、利男はいつものように事務所に鍵をかけると、鍵を警備室に返して外に出た。まだ夏の暑さが残っている夜だった。蒸し蒸しとして、シャツが肌にへばりつくような気持ち悪い夜だった。俺はいつもの様に利男の首から垂れ下がって、ブラブラと夜の街を歩いていた。
その日、利男は少々くさっていたと俺は思う。
というのも新人の若手の営業マンから
「おじさん、書庫の中の整理が悪いよ。必要な書類を探すのに時間がかかってしょうがないよ」
「おじさん……私がおじさん?あの、私はおじさんでもないし、書庫の整理係ではありませんが……」
「どうして、おじさんが書庫の管理をしているって、部長から聞いたよ、責任転嫁するのかよ。しっかり自分の仕事をしなよ」
「……」
特に仕事が無い利男は何も言い返せ無かった。その後、利男は一言も喋らずに書庫の整理をしていた。
利男はいつものように同じ道を歩いて東京駅に向かっていた。そんな利男がふと自動販売機の前で足を止めた。
おっ珍しいじゃないか、たとえ自動販売機でも利男が足を止めることなんか今まで一度も無かったんだから。
何の自動販売機だと思って見てみると、酒だ、そうビールとワンカップが並んだ自動販売機だ。おいおい利男さん、今晩はもう呑みたくなったのかい?
利男は迷っているようだった。
いいじゃ無いかいたまには、なあ、利男さんたまには呑みながら帰るのもいいんじゃないかい?どうしたい利男さん。缶ビールの一本や二本買う金はあるんだろ。買っちまいなよ。なあ、いいじゃないかい、こんなに暑い夜なんだ。冷たい缶ビールはきっと美味えぞ。そう俺は利男の首にぶら下がったまま、利男に囁きかけた。無論利男には俺の囁きなど聞こえるはずは無かった。
まだ利男は迷っているようだ。おい、利男、お前も男なら、ドーンと缶ビール、買っちまいなよ。
利男は散々迷った挙句、ポケットから小銭入れを取り出すと、自動販売機から缶ビールを買った。
ガシャ、缶ビールが取り出し口に出てきた。利男は缶ビールを手にすると、プシュッと栓を抜いて、しばらくその缶を眺めていたが、小さく頷くと口に缶ビールを持っていった。。そして一気に呑み干してしまった。
「ぷはー」
とお決まりのため息をつくと、利男は自動販売機の上の方、どこか分からないが、とにかく上を向いて、目をつむっていた。
しばらくすると、また利男は小銭入れを取り出して、二本目の缶ビールを買った。そして今度はさっきよりも少し時間をかけて呑んだ。利男は今度は下を向いている。まるで落とした釣り銭でも探すように自動販売機の下を見つめていた。少し酔が回ってきたようだった。
またしばらくすると、また小銭入れを取り出して、今度はワンカップの酒を買った。
おいおい利男さんよ、いよいよ本格的に呑み始めるのですか?いいじゃ無いですか、たまにはと、その時、俺はそう思っていた。
利男がワンカップの酒を半分くらい呑んだ時だった。
「ちきしょう、どいつもこいつも……俺のことを馬鹿にしやがって……」
おいおい、なんだか利男の様子がおかしくなってきたことに気がついた時には、利男はワンカップの残り半分を一気に呑み干していた。利男は、今度は札入れから千円札を取り出すと、ワンカップを三本ほど買ってスーツのポケットに押し込んで、多少怪しくなってきた足取りで、東京駅に向かって歩き出した。
利男さんよ、今晩はもうやめたほうがよくないかい?俺はそう利男に話しかけたが、俺の言葉が利男に通じる訳が無かった。
東京駅発の高尾行の快速電車は混んではいたが、高円寺を過ぎると空席が多くなり、利男はどっかと席に座ると、ポケットからワンカップを取り出してまた呑み始めた。
阿佐ヶ谷を過ぎて、荻窪の駅を出たところで、電車が大きく揺れた。かなり手元が怪しくなった手で利男の口元にもっていっていたワンカップから酒がこぼれた。こぼれた酒は利男のあごを伝わって、俺の上に落ちてきた。ワンカップの酒が俺に染み込んだ。俺の腹の底が、カーッと熱くなってきた。ネクタイの腹はどこにあるのかと聞かれると困るが、とにかく俺の腹の底が熱くなってきた。そしたら何となく気分も良くなってきた。俺はこれが酒に酔うというこのなのかと思った。なんせ今まで俺は酒を呑んだことが無い。だから酒に酔うというのは初めての経験であった。
気分がよくなってくると、もう一回電車が揺れてくれることを期待するようになった。
西荻窪の駅が近づいて電車がブレーキをかけたところで、また揺れた。さらに怪しくなっている利男の手は、電車の揺れ以上に揺れて、またまた酒が俺の上にこぼれてきた。そしてまた俺の中に染み込んだ。
俺は最高に気分が良くなってきた。はたから見たら酒飲みが酒をこぼして、ネクタイがその酒でぐしょぐしょに濡れているように見えるだろうが、そんなことはどうでも良かった。俺の気分が最高に良くなってきた頃、電車は終点の高尾駅に着いた。
利男はかなり怪しくなった目つきで高尾駅の改札を出ると、駅前のコンビニでまたワンカップを五本ほど買って自転車を押して歩き出した。俺は利男がかなりヤバイ状態ではないかと心配になってきてはいたが、そんなことはどうでも良く、利男のフラフラとしたある気に合わせて揺れていた。
フラフラと酒を呑みながら利男が自宅についたのはもう夜の十二時を回ろうとしていた頃だった。
利男が玄関のドアを開けて中に入ると、いつもなら聞こえてくるゴジラの雄叫びのような、芳子さんの鼾が聞こえて来ない。俺は何となくやばいんじゃないかいと感じていた。
案の定、
「今晩は、いつもより遅かったわね」
「珍しいじゃないか、こんなに遅くまで起きているなんて?」
「隣の奥さんが遊びに来てさ、つい話し込んでしまったの。あら、あなた呑んでるの?」
「ああ」
「だらしがないわねぇ、ネクタイがお酒でびしょびしょじゃないの。早くネクタイを解きなさいよ」
といって芳子さんが手を出すと、利男はその手を振り払って
「俺のネクタイに触るんじゃないよ」
「そんな薄汚れたネクタイのどこがいいのよ。ワイシャツも濡れているじゃない」
「いいじゃねぇか」
「いいじゃねぇかじゃないわよ。私があんたの安月給で生活のやりくりに苦労しているのよ。住宅ローンを払うのも大変なのに、役立たずのあなたには、お酒なんか呑むお金なんかは無いはずよ。今度からお小遣いは無しね」
この芳子の一言が、利男の導火線に火をつけてしまった。
「何を、俺が酒を呑んだらいけねえのか?」
芳子は珍しく利男が口答えをしてきたのにびっくりしたようであったが、芳子は、あのカラオケ事件、セクハラ事件、接待費使い込み事件と利男の酒癖の悪さを知っているので、利男の口答えに負けずに
「ああ、あんたみたいに稼ぎが少ない上に、酒癖の悪い人は、お酒を呑む資格なんかないわよ」
「一日仕事で疲れてるんだ。酒くらい呑ませろ。何言ってやがんだ、このババア」
「このババアァ、えらく大きな口を叩くわね。そんなことはね、人並みに稼いできた人が言うことよ。あんたみたいな万年平社員はね、お酒なんて贅沢なものを呑む資格なんかないわよ。水道の水ももったいないわ」
「何が万年平社員だぁ、俺は係長だぞ。平社員じゃねえぞ。それにな俺だって一生懸命に働いているんだ。けどな、内の会社の奴ときたら、俺の事を馬鹿にしやがって、そうだよ、あいつらはな、俺の本当の力が怖いんだよ。だから……」
利男は訳の分からない事を言い出した。俺はいい加減にやめろよと思って二人の喧嘩を聞いていたが、反面、面白くなってきたぞ、もっとやれやれとも思っていた。
「何をグダグダ言ってんのよ、あんた係長って言うけど、部下の一人もいないじゃないの。おとなりのご主人なんか、あんたよりずっと若いのに、何人も部下がいるのよ。私はね、恥ずかしくて、あんたの事を隣の奥さんに話せないわ」
利男は俺の結び目を解きながら
「部下がなんだっていうんだ。役に立たない部下なんて、何人いたって屁にもならねえ」
「あんたに比べたら屁の方がましよ」
「なにを、言わせておけばいい気になりやがって、俺が屁ならば、おめえは糞だ、この糞ババアが」
「なんだって、糞にはね、まだ影や形があるけど、屁には影も形も無いんですからね。昔の人はよく言ったわね“屁の突っ張りにもならない”って、あんたなんか何の役にも立たない屁だわ、あんたなんかこの世にいてもいなくてもどうでもいいのよ」
おいおい、もういい加減にしないと……俺は多少うんざりとして、利男の首にぶら下がって聞いていた。
「何だとこの野郎」
「野郎……?こう見えてもあたしゃ女でございます」
「おめえが女だぁ?呆れて物が言えないね。女って言うのはな、おとなしくてな、男のいうことに逆らったりはしねぇもんだよ。おめえはな、女じゃ無くて、三途の河原の奪衣ババアだよ。奪衣ババアの糞ババアだよ」
「何言ってんだい。奪衣ババアだって糞ババアだって女だよ。この世のババアはみんな女なんだよ。この死に損ないが、あんたなんか三途の川を渡る勇気なんて無いくせに」
「ばぁーか、俺はな、怖いものなんか何にもねえんだ。三途の川くらい、いくらでも渡ってやるよ。毎日、毎日三途の川を泳いで向こう岸に渡って、また泳いで帰って来てやるよ」
「面白いじゃないか。そんなら今すぐ三途の川を泳いで渡ってもらおうじゃないか。あんたの大口はね、酒を呑んだ時だけだって言うのを、あたしはよく知っているんだよ。本当に渡りたいんだったら、いま殺してやるから、泳いで渡って帰って来て見せてよ。そんな勇気も無いくせに、どうせすぐに怖くなって謝るのが関の山だわ」
「何だとこの野郎、わかった今から泳いで渡ってやろうじゃないか。さあ、とっとと殺しやがれ」
おいおい殺せだ、殺してやるだって穏やかじゃないよ。今晩はもう遅いんだ、もう寝ようぜ。そう言っているのに、利男はまだ続けている。
「さあ、殺せ、早く殺せ。へっ!何も出来ないのは、てめえの方じゃねえか。この糞ババアが」
そう言いながら、利男が俺の両端を持って首を締めるような仕草をしてみせた。利男の酒癖の悪さは手に負えないね。芳子さん思い切ってやっちまいなよ。そう俺が芳子さんにけしかけた時には、すでに芳子さんの目が怪しくなっていた。芳子さんは利男をドカッと床に倒すと、馬乗りになって利男が持っていた俺の両端を掴むと
「ああ、いま楽にしてやるよ。とっとと三途の川に泳ぎに行きなよ」
芳子さんの目がいっちまってる。俺はこれは本当にやばいと思った時、芳子さんが力一杯に利男の首に巻かれた俺を締めあげた。小柄な利男は馬乗りになった身体の大きい芳子さんに抑えこまれて身動きすることができないでもがいていた。
俺はやれやれ芳子さん、もっとやれやれと芳子さんを応援して、芳子さんと一緒になって利男の首を締めあげていた。
「ぐっ」
利男がうめき声を上げる。
おい芳子さん、もう止めた方がいいよ。本当に死んじまうよ。いけない芳子さんの目が完全にいってる。利男も目をカッと見開いて、口から舌が伸びている。俺は本当にやばいと思った。その時
ヴッ、ヴ、ヴ、
利男が脱糞した。小便も流れだした。
なんとも言えない臭気が漂った。
その時になって、芳子さんが我にかえった。尻もちをついて、糞尿にまみれて小刻みに痙攣している利男を見ている。
俺はまだ利男が息をしているのを感じていた。俺はなぜか、芳子さん、まだ生きているぜ、このままでは利男は息を吹き返しそうだ。芳子さんもうひと踏ん張りだ。もうひと踏ん張り、利男の首を締めあげてやれ。そしたら利男は楽になる。ところが芳子さんは、腰を抜かしてガタガタ震えていやがる。
俺は、俺はどうしてそうしたのかわからないが、利男の首に巻き付いたまま、俺は利男の首を締めあげた。俺は俺の持っている最大の力で利男の首を締めあげた。どれくらいの時間が過ぎたのか俺にはわからなかった。
利男の呼吸が止まった。心臓も止まったと思う。利男はただの肉の塊になった。俺はだらりと利男の胸に垂れ下がった。
芳子さんは腰を抜かしたまま、動かなくなった利男を見ている。芳子さんも小便を漏らしていた。鼻が曲がるような臭気の中で利男は動かなくなり芳子さんは悲鳴のような叫び声で泣き出していた。
新聞配達が深夜だというのに、明明と明かりをつけて、中から叫び声が聴こえてくる利男の家を不審に思って警察に連絡を入れたのは、それから間もないことだった。
早朝の住宅街が一気に騒然となった。
芳子さんは、訳の分からない叫び声をあげながら、警察に連れて行かれた。俺は警察官の手で、利男の首から外されて、ビニール袋の中に入れられて、その他の証拠品と一緒にダンボール箱に詰め込まれた。
利男との二十年の付き合いはこの時終わった。
朝の七時、八重洲の小さな雑居ビルの警備室の中で夜勤勤務の警備員は、いつもなら鍵を取りに来る利男が、今朝は来ないことを気にも止めないでいた。
そしてもうすぐ夜勤の勤務が終わる。勤務時間が終わったら、夜勤明けの美味い酒を、今朝は何処で呑んでやろうかなんて事を考えていた。
ここは地獄の入り口三途の河原、夜勤の終わった地獄の鬼たちが河原のふちの飯屋で酒を呑んでいた。
「やっぱ、勤め終わり、それも夜勤明けの酒は美味いねぇ」
「ああ、身体には悪いかも知れねぇが、この一杯は俺たち地獄の鬼にとっては天国の一杯だよな」
「おい、そういやぁ、こないだ何でも三途の川を泳いで渡ろうとした亡者がいたらしいな」
「おお、そうよ、馬鹿だねぇ。三途の川を泳いでやろうなんて、馬鹿な事をしたもんだよ」
「なんでまた、泳ごうなんて思ったんだろうな?
「何でも、そいつがたいそうな酒好きで、川の渡し賃の六文も呑んじまったらしい」
「だったら、奪衣婆の世話になりゃいいじゃねぇか?」
「それがよ、奪衣婆が身ぐるみはがそうとしたらしいんだが、奴さん寸帽子の代わりに、なんでもあの世でネクタイと言うものを身に付けていたらしいんだが、どうしてもそのネクタイだけは奪衣婆に渡さねぇと意地を張りやがったみたいで、奪衣婆と大喧嘩になったらしいぜ。そんでもって奴さん、売り言葉に買い言葉で、三途の川を泳いで渡ってやると言って、川に飛び込んだんだとよ」
「三途の川を泳いで渡るなんざぁとても無理だ。まったく馬鹿なことをしたもんだな。それで奴さんどうなったい?」
「そこの向こうの奪衣婆の柳の下で、酔死体で見つかったとよ」
この日の朝、俺は二十年間付き合ってきた利男に別れを告げて、ビニール袋に入れられて事件の証拠品として警察の倉庫で保管されることになった。芳子さんが起訴されるまで、俺はこの倉庫で暮らすことになった。
暗く冷たい倉庫の中で、俺は利男と出会った日のことを思い出していた。
あの日、新入りのスタイル抜群の美形店員は俺をショーケースの中から取り出すと、利男を芳子さんに背を向けるように位置を替えて、利男の首に俺をあてがいながら、小声でこう言ったのだった。
「おひしぶり、と・し・お・くん」
はじめ利男はびっくりしたような顔をて店員を見ていたいが、やがて思い出したのか
「か・ず・み・さん……ですか?」
「やだ、忘れたの……?」
美形店員は利男をじっと見つめている。
「忘れるものですか。こんなところで偶然ですね。今までどうしていたの?」
「いろいろあってね。ねぇ、あの人、奥さん?」
「はい」
「ふぅ~ん、利男には似合わないわね。恋愛なの?」
「まさか。上司の紹介でね。断れなくってさ」
「そっかぁ、結婚してるんだ……」
「和美さんは?」
「それが……ねぇ。ねぇ、またゆっくり会えない?」
和美と呼ばれた店員は、芳子さんには気が付かれないように、片手を利男の胸に軽く当ててそう言った。
「いいですよ、あとで連絡先を教えてください」
「あとでね……」
二人の様子が何となくおかしいと気がついた芳子さんが
「そんなに高いネクタイはいらないわ。もう少し安いのはないの?」
と大きな声で言いながら、二人の会話の間に入ってきた。
すると和美と呼ばれた店員が少し大きな声で
「よくお似合いですわ、このネクタイ」
と言うと、芳子さんが
「こんな高いネクタイ、あなたにはもったいないわ。もう少し安いのにしなさいよ」
と言っている。その時だった、今まで芳子さんの前ではおとなしくしていた利男が急に
「いや、このネクタイをいただきます」
と言い切ったのだった。
そして俺は安売りの紳士服量販店のいかにも安っぽい袋に入れられて、和美さんの連絡先のメモと一緒に利男の手に渡されたのであった。これが利男との出会いであった。
その後、二、三日してから利男は和美さんと連絡をとって喫茶店で会った。
いつも一番最後に帰る利男だったのであるが、この時はみんなが不思議がる中を利男は定時で会社を出た。俺も利男に付き合って和美さんと会う約束をした喫茶店に行ったのであるが、その時の利男の嬉しそうな顔と言ったら無かったな。
俺は利男と和美さんの会話から、和美さんは晴山和美といい、利男とは高校の同級生で、二年生の三学期の時に少しだけ付き合ったことがあるらしいことを知った。
利男は東京都青梅市で生まれて育った。青梅市内の小学校から、中学校を卒業すると「都立T摩高等学校」に進学した。「都立T摩高等学校」を選んだ理由は特に無く、自宅から一番近いというだけのことであった。
晴山和美さんは、東京都西多摩郡奥多摩町で生まれ育った。和美さんも地元の中学を卒業すると「都立T摩高等学校」へ進学した。
奥多摩の田舎で育った和美さんは都会志向が強く、当初、高校への進学は東京二十三区内の私立高校を希望していたのであるが、両親の強い反対で、自宅から通学出来る「都立T摩高等学校」への進学を決めたのであった。
和美さんは高校一年生の時からスタイルもよく、また顔立ちも整っていたので、すぐに学校のアイドル的存在となり、その立ち振舞は常に生徒達の注目の的となった。
それに対して利男は小学校の時から成績も良くなく、また美術、音楽、体育とどれをとっても特筆出来るものも無く、どちらかと言うとどこにいるのか分からないといった目立たない生徒であり、和美さんとは対照的であった。
一年生の時にはそれぞれ違うクラスであったが、二年生になると、利男と和美さんは同じクラスになった。
二年生になっても利男は目立たない生徒で、クラスの女子からは完全に無視される存在であった。そしてクラスの花のような存在の和美さんに対しては、憧れのような思いはあったものの、所詮自分には手の届かない存在として、遠くから和美さんを見ているのが精一杯なのであった。
しかし、しかしである、世の中と言うものは分からないもので、特に男女の中と言うとこれまた分からない。そんな日影の生活をおくる利男に和美さんは興味を持ったのであった。
それは二年生の三学期に利男はクラス委員に選任された。これは利男が進んでクラス委員に立候補したわけではなく、大人しく勉強の出来ない利男をクラスの男子生徒がからかい半分、今で言うところのいじめの一つとして、クラス委員にしてしまったのであった。
そして同じく和美さんもクラス委員になった。和美さんは利男とは反対に、自分から進んで立候補してクラス委員になったのであった。もちろんクラス委員の選出にあたっての下馬評では、男子は利男をクラス委員にすると言う情報は女子にも伝わっていたので、何もあのダメ男の利男と一緒にクラス委員をしなくてもとの女子同士での忠告があったものの、和美さんはその忠告を聞くこと無くクラス委員になった。しかし考えて見れば、利男と一緒にクラス委員をしようなどという女子生徒は、和美さん以外にはいなかったのも事実であった。
和美さんがクラス委員に立候補したのは、何をやってもダメな利男に興味を持ったからであった。しかしこれは興味というより、何か分からないが、箸にも棒にもかからない影の薄い男の子に対しての憐れみの気持ちと、まだ体験したことの無い、怖いもの見たさが入り混じったものではなかったかと俺は思っている。
利男と和美さんは一緒にクラス委員をすることになったのであるが、案の定、利男は何をやってもダメで、何かと和美さんが利男のサポートをするようになった。一緒にクラス委員をすることで、必然的に利男と和美さんは二人で過ごす時間が多くなり、しばらくすると下校時には利男は和美さんを青梅駅まで送るようになっていった。
当然、それは学校中の話題となり、一時は「都立T摩高等学校の奇跡」として、学校新聞にまで載せようかというところまでいったが教員の反対でボツになった。
そのように全校生徒の注目を浴びた利男と和美さんのカップルであったが、積極的な和美さんのアピールに気が付かない利男は、和美さんを青梅駅まで送っていくのが精一杯で、手をつなぐことも出来なかった。
そのような利男と和美さんの交際は長くは続かず、三年生になると和美さんには新しい彼氏が出来て「都立T摩高等学校の奇跡」は「都立T摩高等学校の伝説」として語り継がれるようになった。
しかし、利男はクラス委員をやっている間に、明らかにクラスメイト以上の好意を持つようになっており、毎日、青梅駅まで送って行ったことを、楽しかった思い出として、和美さんが別の彼氏と付き合うようになっても忘れることはなく、そしてその思い出はいつまでも利男の誰にも言えない素敵な思い出となり、深く利男の心の底にしまい込まれたのであった。あの日までは……。
ふたりは「都立T摩高等学校」を卒業すると、利男は東京の大学に進学して、一人暮らしを始めた。そして和美さんは、原宿の衣料品店の店員として就職し、念願の東京での一人暮らしを始めた。ともに東京で一人暮らしを始めた利男と和美さんであったが、卒業後、二人は一度も会うことは無かった。しかし利男の心の何処かにはいつも和美さんへの思いがあった。
そのような思いを持っていた利男であたので、スーツを買いに行った店で和美さんに再会した時、そして密かに思いを寄せていた和美さんの温かい掌をそっと利男の胸にあてて「また会いたい」と囁かれた時、利男の身体の一部は興奮の頂点に達していた。そしてそっと当てられて和美さんの掌の下では、利男の心臓が今にも爆発するのではないと思うほどであった。
利男と和美さんのデートはその後二、三回続いた。そして和美さんは「都立T摩高等学校」を卒業してからの生活のことを利男に話して聞かせた。
和美さんは衣料品店の店員として働くようになったのであるが、働き始めてすぐに衣料品店の店長といい仲になった。しかし店長は妻子持ちであったため、和美さんと店長は、店長の友人を頼って、群馬の田舎に駆け落ちをしたらしい。しかし群馬での生活は長くは続かず、店長はやがて元の妻子のところへ帰ってしまい、和美さんは一人で暮らすようになった。その後も和美さんは何人かの男性と付き合ったらしいが、まあ男運が悪いと言うのか分からないが、付き合う男性にことごとく捨てられたということだった。
そして和美さんは、最後に付き合った男性は特にひどく、大酒飲みで、その上ギャンブルが大好きで、競馬に競輪で大きな借金を作って逃げてしまい、今でも和美さんは、その借金の一部を払い続けているらしく、そのため毎日の生活は苦しく、その日の夕食の食費にも事欠くような状態であることを利男に話して聞かせた。
高校時代の憧れの和美さんが、現在そのような生活を送っていることを知った利男は、和美さんの事を不憫に思ったのは当然と言えば当然のことかも知れない。
しかし利男には和美さんを助けるだけの経済的な力は無かった。
そこで利男はある計画を思いつき、実行することにした。
それから間もなく、利男は親しくさせて頂いているお客と半ば強引に酒を呑む約束を取り付けた。
当然、会社には将来的には大きな受注につながるかも知れない大切なお客様であり、丁重な接待をしたいと申し入れ了解を取り付けた。そして利男はその日を計画実行の日と決めた。計画実行の日が決まると、利男は赤坂の高級ホテルの高級レストランと高級ラウンジを予約し、そしてホテルの宿泊の予約を入れた。当然、部屋はダブルであった。そして和美さんにも、その日の夜、予約を入れた高級ホテルのロビーで待っていて欲しいと連絡を入れたのであった。
その日、営業部長から接待のためのカードを受け取ると、利男はお客と呑む前に五十万円をキャッシングした。もっと大金をキャッシングすればいいのにと思う方もいるかも知れないが、その時の利男にとって五十万円はとんでもない大金であり、現金の入った封筒をもった利男の手は震えが止まらなかった。
お客との約束は夕方五時半から、会社の近くの安いチェーン店の居酒屋であった。お客との呑みをそそくさと済ませると、和美さんと待ち合わせの約束をしている赤坂の高級ホテルに向かった。もちろんタクシーでと言いたいが、悪いことをしているという引け目から、利男は地下鉄で移動した。本当の悪党にはなれない利男であった。
その晩、利男は和美さんと赤坂の高級ホテルの高級レストランで、利男が今までに食べたこともないような高級な料理で夕食をとると、予約していた高級ホテルの最上階の高級ラウンジで、今までに呑んだことがないようなカクテルというお酒を呑んだ。
そしてキャッシングしてきた五十万円を和美さんに渡すと
「当面の生活費にしてほしい。このお金は返さなくてもいい」
と和美さんに告げたのであった。
そして利男はお酒の力もあったが、今までの人生で出したこともない勇気を振り絞って、和美さんを予約していたホテルの部屋に誘った。
部屋に入ると俺は部屋のクローゼットなどという名前の小さな部屋に放り込まれてしまったので、その後のことを皆さんに詳細を伝えることは出来ないが、和美さんとの一夜は、男慣れした和美さんのテクニックに利男は極楽の境地を彷徨ったようだった。
翌朝、和美さんをタクシーで自宅近くまで送った利男は、和美さんとまた会う約束をして別れた。
しかしその日以降、利男は和美さんと会うことは無かった。利男が和美さんの連絡先に電話を入れても誰もでることは無く、聞いていた住所を訪ねて見ても、そこは銭湯であった。和美さんが勤めていた紳士服の量販店にも行ったが、和美さんは数週間前に店を辞めたとのことであった。
やがて接待費を使い込んだことがバレて、使い込みの理由を追求されることになった利男であったが、その詳細を誰にも語ることは無かった。もちろんキャシングした五十万円の使い道に関しては、決して話さなかった。
俺は事件の一部始終を知ってはいたが、ネクタイの俺は誰にもそれを話すことは出来なかった。
しかし利男の心の中には、高校時代に青梅駅までの思い出の他に、目くるめくような夜の暗闇が、利男の人生で中で一番の暗闇となった事を俺だけが知っていた。