伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ-11(遠い記憶のなかに)

 おはようごさいます。

 

 今週も何とか一週間頑張ることが出来ました。

今日はお休み、ゆっくり過ごしたいと思います。

 

 さて、昨日までお話いたしました、神村少年の東京生活は、お金はありませんでしたが、それなりに楽しく暮らしており、それなりに充実した日々を過ごしておりました。

 

 しかしそんな神村少年の東京生活も、やがて終わりを迎えることになります。

 

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 世の中には、自分の家庭のことは棚に上げて、他人の家のこととなりますと、土足で入り込んできて、なんとかただ酒を呑もうという親戚がいたりするものですが、神村少年の親戚にも、そのような出しゃばりジジイやお節介ババアがおりまして、神村少年のことについて、ああでもない、こうでもないと口やかましく言う、ジジイとババアがおりました。

 

 なんせ大学ならまだしも、インテリアデザイナーなどという将来の保証など無い、やくざな仕事を目指している専門学校(当時はやっと専門学校が認められ始めた頃でした)の学生なんて、口うるさい親戚の出しゃばりジジイやお節介ババアから見れば、親不孝者の大馬鹿者、そのうえ親戚の恥であり、そのうち「フーテンの寅さん」のようになってしまうのではないか、そうなると神村家の繁栄はないどころか、神村家は近いうちに滅亡の危機を迎えることになるであろうとの予言を信じて、大騒ぎをしているのでありました。

 

 また、神村少年が育ちました、山陰の田舎には大本家、本家、分家と言った階級制度がまだ根強く残っており、それは神様、人間、奴隷のようなものであり、本家の言うことは絶対、大本家の言うことに逆らおうものなら、切腹のうえ、お家お取り潰しになりかねないわけでありまして、神村少年を応援しておりました神村少年の母も

 

「お前の息子をこのまま野放しにしておいては、神村家を滅亡に追い込んでしまう。あの大馬鹿者を早く東京から呼び戻して、わしが世話をするので就職させなさい」

 

という、大本家のジジイに逆らえないのでありました。

 

 来年春には専門学校の卒業を控えた年の暮れ、冬休みで帰省しておりました、半ば強制的に地元の企業(この時、神村初年はこの会社が何をしている会社かもしりませんでした)の面接を受けさせられたのでありました。

 

 面接の結果は採用でしたが、条件として、年明けからすぐに働くこと、それならば採用する。当然、神村少年は

 

「あと三カ月で専門学校を卒業することが出来ます。それまで、今少しのお時間をいただきたい」

 

と申し入れたのでありますが、会社からは

 

「あいならぬ。年明けすぐに出社できぬのであれば、採用はない」

 

と言い渡れたのございます。

 

 これは、大本家のジジイが、会社の上役と懇意にしておりましたので、神村少年はそのジジイ達の策略にまんまと嵌ったのでありました。

 

 神村少年は、それ以上、天の声である大本家のジジイに逆らうことは出来ず、仕方なく冬休みが終わっても東京には帰らず、何をしているのかも知らない会社に入ることを決めたのでありました。

 

 神村少年が暮らしておりました下宿も、気が付けば面接の前からジジイは、親戚の若い者にトラックの運転を手配をして、すでに下宿を引き払う準備が終わっておりました。

 

 年末も押し詰まった、十二月三十日の夜、神村少年は、部屋の荷物をまとめて、引っ越しのトラックに一緒に乗り込んで、下宿を後にしたのでありました。

 

 トラックに乗り込んだ神村少年は、運転を頼まれた親戚の兄ちゃんに、あえて新宿を回る道を案内して、様々な経験をした歌舞伎町のネオンにトラックの中より別れを告げたのでした。

 

 このようにして、東京での生活が終わり、会社に入った神村少年ですが、その後四十年のあいだ、私はその会社で働いております。

 

 その後、仕事であるいはプライベートで何度か東京へ行くことはありましたが、新宿にも高田馬場にも行くことはありませんした。

 

 しかし、数年前にちょっとした仕事で東京に出張したことがありまして、その時、時間がありましたので、高田馬場に行き、アルバイトをしていたクリーニング店を探しましたが、見つけることが出来ませんでした。

 

 そして西部新宿線に乗って、下井草の駅で降りて、昔暮らしておりました下宿に行ってみたのですが、窓の下にあった大根畑に立った建売住宅は、そのままでしたが、下宿も大家さんの母屋も無く更地になっておりました。

 

 下宿のあった場所を後にした私は、今度は井荻の駅に向かいました。

 

そして駅前で、あの懐かしい「みかちゃん食堂」の暖簾を見つけた時、私の心の中に、東京での生活が蘇ってきたことを思い出します。

 

        おしまい。