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伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ-9(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 外は雨が降っています。部屋の中で、外の雨音を聴いていると、何となく心が落ち着いてきますね。

 

 さて、不安な思いを胸一杯にして、神村少年の東京での生活が始まりました。

 

 その頃の日本は、荒れ狂った学生運動も「あさま山荘事件」で終焉を迎え、はたまた、第一次、第二次と世間を混乱に陥れた「オイルショック」からも抜け出し、次々に新しいものが登場してくる時代となっておりました。

 

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 今では日本中どこに行ってもある「マクドナルド」が日本で初めてお店を出したのも、この頃であったと思います。

 私も確か銀座か新宿にハンバーガーを物珍し気に食べに行った記憶があり、初めて食べたピクルスの味に、これは日本人の食う物ではないなと思いましたが、今ではピクルスの入っていないマックなんてといった感じで、美味しくいただいています。

 

 また下宿の近くに「セブンイレブン」というコンビニエンスストアと呼ばれる、小さなスーパーのようなお店が開店しました。

 当時は今のように二十四時間営業ではなく、朝の七時から、夜の十一時までの営業でした。ですから「セブンイレブン」と宣伝していたように記憶しています。

 また今の「セブンイレブン」はオレンジとグリーンが基本カラーになっていますが、当時はオレンジだけだったような気がしますが、この点はあいまいでございます。

 しかし夜の十一時まで営業しているお店何て当時は少なく(飲食店は除いて)、便利になったものだと思ったものです。

 

 またマイクロプロセッサーというものが開発されて、パソコン、当時はまだパソコンなどと略して呼ばずに、パーソナルコンピューターと言うものが世の中に登場したころでもありました。

 ゲームセンターでは「スペースインベーダー」というテレビゲームが流行し始めた頃でもありました。

 この後「スペースインベーダー」は爆発的な流行をすることになります。

 

 音楽の世界も、アイドルと呼ばれる人たちもいれば、フォークソング、ロックの分かも根付いてきた頃であり、新しくパンクロック呼ばれるものも登場してきました。

 しかしヘビーメタルと呼ばれるロックの登場は、もう少し後のことになります。

 

 原宿では「タケノコ族」と呼ばれる若者が踊っていたように思います。

 

 以上は、私の記憶のなかでの話ですので、多少思い違い、記憶違いもあるとは思いますので、ご了解ください。

 

 この時代から十年後くらいに、日本はバブル景気と呼ばれる好景気の時代となるわけではありますが、私が東京で暮らし始めた頃は、そのバブル景気に向かって日本が走り始めた頃だったように思います。

 

 そんな時代に、神村少年は東京での生活を始めたのでありますが、山陰の片田舎で育った神村少年にとって、東京での生活は驚きの連続でありました。

 

 神村少年がまず驚いたのは、バスの乗降でありました。

 

 神村少年が育った田舎のバスは、バスの中ほどの入口から乗って、降りるときは運転手さんのいる前側のドアから降りるシステムになっており、料金も降りる時に、バスに乗った区間によって異なるのでしたが、東京のバスは、前側のドアから乗って、まず同一の料金を支払い、降りる時にはバスの中ほどのドアから降りる。

 神村少年は始めはバスの乗り方がわからず、バスに乗ることが出来ませんでした。ですからバスに緊張して乗るより、歩いた方が気が楽と、どこまでも歩いて行ったのであります。

 

 専門学校の入学式も終わると、何より初めに取り掛かったのはアルバイト探しでした。なんせ生活費は自分で稼ぐと言ったのですから、何とか収入源を確保しないといけません。

 

 神村少年は「アルバイトニュース」を買ってアルバイト探しを始めたのでした。

 

 学校は代々木、下宿は杉並の井草でしたので、神村少年はその中間あたりの高田馬場の周辺でアルバイトを探したのであります。

 

 幸いすぐに駅から徒歩で五分くらいのところにあるクリーニング店がアルバイトを募集しており、神村少年はそのクリーニング店でアルバイトをすることになったのでありました。

 

 神村少年にとって人生初めての仕事であります、クリーニング店での神村少年の仕事は、ワイシャツのプレスの仕事でありました。ムシムシと暑いクリーニング店の中で、毎日毎日ワイシャツをプレスする仕事ではありましたが、神村少年はそれなりに楽しく、またそれなりに生活に必要な収入も得たのでありました。

 

 あの時、まだわけのわからない田舎の少年にいろいろと教えてくださったクリーニング店の皆さんも、今は皆さんいい歳に、いやもしかしたら、あの世と言うところに逝かれた方もあるのではないかと思いますが、この場をお借りして、改めて御礼を申し上げます。

 

 その後、神村少年は新宿の歌舞伎町にありました金物店で販売のアルバイト、また歌舞伎町のディスコの黒服のアルバイト、当時はジョントラボルタの「サタデーナイトフィーバー」という映画がヒットしていたと思うのですが、新宿には大小いくつかのディスコがありました。

 

 別にディスコにもダンスにも興味の無い神村少年でしたが、時給のよさに飛びついたアルバイトでした。

 

 その後も、歌舞伎町で中華料理店の調理補助などのアルバイトを経験した神村少年でしたが、日本一と言われる歌舞伎町でのアルバイトは、様々な人間模様を見ることにより、良気に付け悪しきに付け、その後の神村少年の人生の糧となったと思います。

 

 アルバイトが中心の生活のようではありますが、神村少年は学校にもしっかりと通学しており、それなりに学業も頑張っていました。

 

 午前中は学校に行き、午後から、はたまた夕方からアルバイト、アルバイトを終えて下宿に帰ると朝まで学校の課題やって、ちょっと寝て、そして学校に行く。

 

 今から考えると結構ハードな毎日ではありましたが、日々楽しく生活していたように覚えています。

 

 しかし、ディスコでアルバイトをしている時は、下宿に帰るのが深夜になっており、当然銭湯はすでに終わっており、毎日下宿の小さな洗面台に頭を突っ込んで頭を洗い身体を拭く、風呂に入れない生活は今から思えば、随分と臭いそうな生活でありました。

 

 そんな生活でありましたので、洗濯も週に一度できればいい方で、洗濯物が溜まりに溜まって、ひどいときには、溜め込んだ洗濯物の中から、まだ着れそうなものを選択するという洗濯をしていたものでした。

 

 ああ、なんとも汚い生活であったものです。

 

 しかしそんな生活が、神村少年が故郷で就職してからの仕事の中での苦しい時の励みになっていたように思います。