伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

東京というところ-8(遠い記憶のなかに)

 おはようございます。

 

 専門学校の入学の手続きも終わり、東京生活で必要な物も買い揃えて、下宿先に送ってしまい、いよいよ明日は旅立ちの日の前の日、夕食を終えた神村少年の母は、当面の生活費として、十万円を用意してくれました。

f:id:kamurahatuya:20160928034248j:image

 母は

「いいかい、東京というところは怖い所だよ。お前みたいにまだ何も知らない、田舎者が生活できるところじゃないかも知れないよ。人の言うことを簡単に信じちゃいけないよ。人を見たら泥棒と思わないといけないよ。いいかい、わかったかい。ここに東京での当面の生活費として十万円入れておくからね。東京に着くまでに落としたりしたら大変だから、お前の下着に縫い付けておくよ。いいかい、東京に着いて、部屋に入って、ドアに鍵をかけるまで、この袋から出すんじゃないよ。新幹線の中で出したりするんじゃないよ」

 

 そう言いながら、母は十万円が入った封筒を布の袋に入れて、その袋を明日、私が着て行く下着にの胸のところに縫い付けてくれました。

 

 その母を私はじっと見つめていました。

 

 母は私の憧れだけのわがままを何も言わずに全て聞き入れてくれて、東京での生活の準備をしてくれたのでした。

 

 母子家庭の我が家には、私を東京の専門学校に行かせる余裕などあるとは思えず、おそらくあちらこちらからお金を借りて準備をしてくれていることは、何となく気が付いておりました。

 

 この十万円だって、余裕のあるお金ではないはず、私は下着に袋を縫い付けている母をみていると、なんだかとんでもない親不孝をしてしまったように思ったのでした。

 

 そして、せっかく母が苦労して行かせてくれる専門学校だ。この専門学校を選んだ理由は不純だけれど、なんとしても卒業まで頑張ろう。

 

そして卒業したら、きっとここに戻って来る。そしたら私は一生懸命に働いて、きっと母に楽をさせてやる。これまでの親不孝を何倍にもして、きっと楽をさせてやるから、もう少し、ほんの少しの時間を待っていてほしいと、心の中で母に話しかけたのでした。

 

 そうして入学した専門学校を結局、私は卒業することなく、故郷に帰り就職なるのですが……。

 

 就職後は、自分でいうのもなんですが、それは一生懸命に働きました。

 

 我武者羅に働きました。

 

 三十前には、母の念願であった家も建てました。

 

 婚期はかなり遅れましたが、結婚もし、孫の顔を見せることも出来ました。

 

 旅行好きの母が行きたいと言うところは、すべて連れて行きました。

 

 四十前には、二軒目の家を建てました。二軒目の新築の家の風呂に最初に入った母は、

 

「まさか、一生のうちに、新築の家の初風呂に、二回も入れるなんて思ってもいなかったよ。初風呂のに二回入ると中気がつかないというから、あたしはポックリと逝けるかもしれないね」

なんて冗談を言っていたのを思い出します。

 

 私は自分としては精一杯の親孝行をしたつもりでした。

 

 

 そんな母も十年ほど前に癌で遠い世界に逝ってしましました。癌だとわかってから、三カ月ほどの入院で、あっけない終わりでした。ほんとうにポックリと逝ったように思います。

 

 私は今でも考えることがあるのですが、東京から帰ってから、私は本当の親孝行が出来たのだろうかと……もっとしてやれることがあったのではないだろうかと思ってしまいます。

 

 でも、母はもういません。

 

 翌朝、私はギターケースと小物の入ったカバンを持って、ひとりで駅に向かいました。母は玄関までは見送ってくれましたが、駅にはついてきてはくれませんでした。おそらく息子が列車に乗る姿を見ることに耐えられないと思ったのでしょうね。

 

 私は駅に向かう道で、すぐに帰って来る、そしてこの生まれ育った町で頑張る。

 

 私はひとり岡山へ向かう列車に乗りました。岡山で東京へ向かう新幹線に乗り換えると、今までの浮ついた憧れなどは消えて無くなり、東京で一人暮らしをする不安な気持ちが満ち溢れた気の小さな十九歳の少年となっていました。