伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

神村 肇埜の朝活事始め(一週間)

 おはようございます。

 

 朝活宣言をいたしましてから、なんと一週間が過ぎました。

 昨日は休日でしたので、ゆっくりと過ごしました。近くの神社に散歩に行きましたが、小雨が降りなんとなく、秋だとは思うのですが、まだ木々の葉は碧く、台風前でなければ、汗をかくのではないかと感じる神社の森でした。しかし、確実に季節は変わり目、するめはあたりめ、私はでたらめでありまして、もうすぐ冷たい風がこの森の木々を揺らすようになるのだと思います。

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 しかし今年は台風が多いみたいですね。今回の台風の進路になっている地域の皆さんはご心配のことと思います。

 今、午前三時過ぎであり、暗い窓の外の様子をうかがい知ることは出来ませんが、雨が外のトタン屋根にあたる音が聞こえ、ああ、雨が降っているのだと思うのであります。

 神社の森といいますと、今は静かな散歩のコースでありますが、私が子どもの頃は、神社の周りで生活する子どもたちにとっては、遊び場であり、隠れ家であり、はたまた親にも友達にも言えない、秘密の場所でありました。

 私たちの年代の者が、子ども頃は、もちろん今のようにテレビゲームもスマホも無く、家にあるのは、将棋にトランプ、そして花札くらいでありました。もちろんそういったもので遊ぶこともありましたが、それは雨の日など、外に出て遊ぶことが出来ない日のことでして、普段の私たち子どもは、家の中より、外で走り回って遊ぶことが多い時代でした。

 そうした子どもとって、神社の森は自然観察の場であり、探検の森でありました。毎日のように神社の森の中で遊んでいるのでありますが、日々新しい発見をしていたように思います。

 そしてまた神社の森の中は、子どもたちにとっては秘密の場所でもありました。親の財布からくすねて買ったプラモデルを作ったり、家には持って帰ることが出来ない本、所謂エロ本などを隠れ見て、隠しておくところでありました。そして、誰が隠したかわからない、そのようなお宝を発見すると、何とも言えない喜びを感じたものであります。特に家に持って帰ることが出来ない本を見つけた時は、なんとも言えない徳をした気分で、ズボンの前を膨らませたものでした。

 そんな悪さをする子どもたちを神社の神様はきっとどこかで見ておられたのでしょうが、子どもすることと笑っておられたのでしょう。

 

 昨日は久々にゆっくりと神社の森を散歩したのでありますが、私の周りをそんな子どもたちが走り回っているように感じておりました。

 

 この三連休に私は小説らしきものを書きたいと思っていたのでありますが、いざそう思ってパソコンに向かっても思いつくものはラーメンと晩御飯のことばかりで、小説の小の字も書けませんでした。もっとも私の小説らしきものは、微小説らしきものでありますので、なんら世の中に影響はないのであります。

 しかし物を書くということは、そんなに簡単なことではないことを思い知らされる日々でございます。

 でも早起き生活をはじめて一週間が過ぎました。何事も一か月頑張れば習慣になると何かの本で読んだことがあります。これからが習慣にしていく正念場と心に刻んでと、何やら大げさなことを書いております。