伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

夏の思い出

 暑い、あついと言っていた夏の盛りも過ぎて、最近は朝夕に涼しさを感じるようになりました。みなさんも今年もいろいろな夏の思い出が出来たのでは無いかと思います。

 

 今年の夏は私にとっても思い出深いものになりました。

 

 我が家の娘が今年の春に就職して、大阪に行きました。そしてこの夏に初めて帰省して来ました。

 

 なんだかんだと言いながら、

この春まで一緒に暮らしていた娘ですが……

いつかは、どっかに行ってしまうことは、分かっていたのですが……

 

 やっぱり家族がいなくなると寂しいものです。

 

 思い出してみると、私も今から四十年前程前に親元を離れて、東京というところで暮らし始めました。

 

 母子家庭で育った私は、高校を卒業と同時に就職する予定だったのですが、就職試験に失敗してしましました。就職試験の結果が出たのが遅く、もう就職試験を受けることが出来る会社も無く、また進学などまったく考えていなかった私は、卒業後の進路が決まらないままで高校を卒業することになりました。

 

 目標を失った私は、何となく一度は日本の首都を見ておきたい、東京というところで暮らしてみたい。ただそれだけの理由で東京へ行きたい思うようになったのでした。しかし東京で暮らすためには、それなりに理由が無いといけないと思い、ぎりぎり入学することが出来た専門学校への進学を決めたのでした。

 

 それもなんとデザインの専門学校に……

 

 今から思えば、まったく興味など無いデザインの学校へ良く入ったものだと思います。

 

 しかし母は息子がプー太郎でいるよりはいいと思ったのか、入学金と学費を何とかしてくれて、私は東京で暮らすことになったのでした。

 

 高校を卒業して、東京へ向かう日、私は一人で誰の見送りも無く岡山行きの列車に乗ったのでした。

 

 きっと母は見送るのが辛かったのだと思います。

 

 入学金と学費は母が何とかしてくれたのでしたが、下宿代と生活に必要なお金は自分でアルバイトして稼ぐからと、母に言って東京行きを許して貰ったので、私の東京での生活はアルバイトに明け暮れる日々となったのでした。

 

 その年の夏、私は当然のように夏休みを故郷で過ごしました。

 

 夏休みも終わりが近づき、また東京に帰る頃になると、なんとも言えない切なさを感じたものでした。

 

 そして東京に帰る日、母は駅まで見送ってくれました。

 

 娘の帰省は学生と違って、一週間程度ではありましたが、久しぶりの故郷と我が家を楽しんでくれたと思います。

 

 大阪に帰る日、私は娘を送って駅まで行きました。出発の時間になって一人列車に乗る娘を見ていたら、なぜか涙が止まりませんでした。

 

 そしてホームで娘を見送った私は、四十年前に私を見送ってくれた母の思いを何となく感じることが出来るような気がしています。

 

 

 あの日、母も今の私と同じ思いで私を見送っていたのだと思います。

 

 その母も十年前の夏になくなりました。

 

 その年の夏も、暑い夏だった事を思い出します。照りつける太陽の下で母を送った事を思い出します。

 

 東京に帰る日に母に見送られてから、四十年の月日が流れ、母を見送り、そして今度は私が娘を見送る立場になりました。

 

 そしてもう少ししたら、私もあの世と言うところへ旅立つ日が来るのだと思います。そうしたら、私が母を見送ったように、今度は娘に見送られることになるのだと思いながら、ホームで娘の乗った列車が見えなくなるまで、見送っていました。

 

 今年の夏は何だか感慨深い夏の思い出となりました。