珈琲と私
徒然なるままに、
清水を汲みて、豆を挽き
茶の湯を楽しみ
電子記帳機に向かいて
日暮し
心に移り行く、よしなし事を
そこはかとなく、打ち入れれば、
あらあら、いとおかし
げに、珈琲とはおかしな飲み物なり
神村 健康法師
いつからだろうか、私が珈琲を飲むようになったのは?
少なくとも小学生の頃は珈琲を美味しい飲み物だとは思ってはいなかった。カルピスの方が美味しいと思っていた。いや、もしかしたら今でも珈琲よりカルピスの方が美味しいと思っているかも知れない。
よく人は珈琲の色を琥珀色に例えるが、私にはあの黒い液体がとても飲み物の色だとは思えない。そんなことを言ったら、コーラも同じかも知れないが……
その珈琲を飲むようになったのはいつからだろうか?
中学生になると多少色気づいてきて、高校生になると女の子のことばかりを考えているようになった。そして、高校生の時に大人の真似をして『喫茶店』に出入りするようになった。
最近『喫茶店』らしい『喫茶店』をあまり見かけなくなった。しかし私が高校生の頃は、あの“スター何とか”といった『カフェ』などというものは無く、全て『喫茶店』であった。
余談になるが、私はあの“スター何とかや”、“タリー何とか”と言った店に入ったことが無い。いや正確に言えば、確かに一度や二度は入ったことはあるが、自分から進んで行こうと思ったことは無い。
理由は至極簡単である。注文の仕方が分からないのである。まず、珈琲カップのサイズの呼び名がわからない。ショートだとか、グランデだとか、カタカナの呼び名が分からない。どうして、大、中、小ではいけないのかと思ってしまう。それからカウンターで注文してしている人は、単純にコーヒーと言っている人などいない。みなさん、何とかペチーノとか言っている。
なんだそのペチーノというものは?
このようにカタカナが溢れているところには、どうしても気後れしてしまって、自分一人でお店に入る勇気が無い。ということで、私は“スター何とか”には一人で入ったことが無いのである。
それと最近のカフェは、私にとってすこぶる居心地が悪い、これは私の僻みかも知れないが、“スター何とか”でコーヒーを飲んでいる人の中には必ずと言っていいくらい、ノートパソコンを広げている。そういう人はまた難しそうな本とか英字新聞を傍らにおいて、なんだか難しそうな顔をしていたりする。いったい、何をしに来ているんだと言いたくなる。
先日も本屋に併設されているスター何とかに行った。そしたら、いたいた、ノートパソコンを広げている奴が……何を見ているのか気になったので、それとなく後ろから覗き込んで見たら、ネット販売のサイトを見ていた。そんなこと家でしろ!って言いたくなったが、もちろん言わなかった。
ということで最近流行りの“スター何とか”や“タリー何とか”は、注文の仕方が分からないのと、雰囲気が私に合わないという理由で、行かないことにしている。
さて、『喫茶店』の話に戻ろう。
高校生になると私は『喫茶店』に出入りするようになったのであるが、当時『喫茶店』に出入りしている高校生は不良と呼ばれていた。しかし私は不良では無かった、いや、決して品行方正で優秀な優等生では無かったが、不良では無かった。
私は『喫茶店』では珈琲を飲むものだと思っていた。『喫茶店』で珈琲を飲むのが大人だと思っていた。だから別に美味しいとは思っていなかったが、私は大人のふりをして珈琲を頼んだ。この頃から私は珈琲を飲むようになったような気がする。
しかし何度もいうが私は珈琲を味わっていたわけではない。
私は珈琲を味わって楽しんでいるわけではなく、大人の真似をして喫茶店の椅子に座って、珈琲を飲みながら友人との会話を楽しんでいる自分の姿に酔いしれていたのだと思う。
その頃から今まで私は珈琲を飲み続けているのである。
では、その美味しいとは思っていない珈琲をどうして毎日のように飲むのであろうか?
何度も言うが、私は珈琲を美味しい飲み物だとは爪の先ほども思っていない。
でもしかしである、私は珈琲を楽しんで飲んでいる。ここである。私は珈琲を味わって飲んでいるのでは無く、楽しんで飲んでいるのだ。何を楽しんでいるのかと言われると困ってしまうが、たぶん私は珈琲を淹れる手間と珈琲を飲む時間を楽しんでいるのでは無いかと思っている。
まず、手間を楽しんでいるとはどういうことかというと
私は珈琲に特別な思い入れも無いし、拘りも無い。しかし、珈琲を淹れる水は近くの湧水に決めている。近くの湧水と言っても、片道車で三十分かけて、大山まで湧水を汲みに行くのである。本当は別に水道水でも構わないのであるが湧水を汲みに行く。しかし水道水で淹れた珈琲と湧水で淹れた珈琲の違いなど私には分からない。それなのに、ただただ珈琲のためだけに大山まで湧水を汲みに行くのである。湧水を汲みに行くと言うことが私には楽しいのである。何がそんなに楽しいのかと聞かれると答えに困るが、とにかく楽しいのである。楽しいから、楽しいのであって、それ以外の何物でもない。
次に豆である。
このように書くと、ほらほら豆に拘りを持っていらっしゃるじゃあございませんか、となりそうであるがそうではない。先ほども言いましたが、私は珈琲に思い入れも拘りも無い。だから豆はなんでもいい。別にモカだとか、キリマンだとかは言わないし、その違いも判らない。
なのでいつも安売り専門のスーパーで百グラム百円以下の豆を購入している。たまに懐に余裕があると、珈琲の専門店で百グラム千円もするような豆を思い切って購入することがあるが、私には百グラム百円の豆と百グラム千円の豆の味の違いは判らない。どちらも同じ珈琲じゃないかと思ってしまう。
しかし断っておくが、購入するのは豆でないといけない。すでに挽いてある粉ではいけないのである。なぜかと言うと、粉では挽く、つまり豆を挽くという作業が出来ないからである。
私は何年か前に、ネット販売で珈琲ミルを購入した。別に拘りを持って購入したわけではなく、何となく豆を挽いたら楽しいかも知れないと思い購入を決めた。もちろん電動ミルではなくて、手でハンドルを回してゴリゴリと挽くミルである。
私は毎日、珈琲豆をゴリゴリとハンドルを回して挽いて、小さな引き出しの中に溜まった粉をペーパーフィルターの中に入れるという、豆挽き手間を楽しんでいるのである。
しかし、あとはコーヒーメーカーにお任せする。
毎朝起きると、家内と二人分の珈琲豆を計量してミルに入れる。そして珈琲のためだけに汲んできた水をコーヒーメーカーにセットすると、ゴリゴリとハンドルを回して豆を挽き始める。ゴリゴリとハンドルを回しながら台所の窓から朝の風景を眺める。窓の外は田んぼなので、時間と共に変化していく、田んぼの風景を眺める。この時間が楽しい。なんとなく余裕のある朝の時間を過ごしているようで楽しいのである。
挽き終わった豆は、コーヒーメーカーにセットしてスイッチを入れる。あとは機械にお任せである。
珈琲の淹れ方に私流の拘りは無い。あるとすれば、第一投だけは機械任せにはしていない。第一投目はやかんから入れる。理由は大して無いが、以前からそうしている。あとは機械にお任せである。
なぜ機械にお任せかというと、何となく珈琲に対しての世の中の拘りが、この淹れ方にあるような気がしている。無いとは思うが、何々流などというものがあるような気がして面倒くさいからである。だから機械に丸投げなのである。
しかしこの手順も、出来上がった珈琲を飲むための手間なのかも知れない。そして私は考えてみると、あるものを作っているのを楽しんでいるのかも知れない。何を作っているのかというと、それは時間である。
コーヒーメーカーに仕事を丸投げすると、コーヒーメーカーはブツブツと言いながら仕事を続けている。しばらくするとコーヒーメーカーのポットの中に珈琲が出来上がる。
出来上がった珈琲をカップに入れて、テーブルに着く。珈琲をまず一口、そしてもう一口と飲みながらテレビから流れるニュースを見る。そして窓の外の風景を眺めながら、物思いにふけったふりをして、ふぅっとため息をついて見たりする。しかし決して何かを真剣に考えたりはしていない。あくまでもふりである。物思いにふけったふりをしているのである。しかし……この時間が楽しい。
もしかしたら、この時間を楽しむために、わざわざ大山まで湧水を汲みに行ったり、珈琲豆をゴリゴリと挽いたりと手間をかけているのかも知れない。
別に生きていくために必要な水分はいろいろな食物から摂っているし、のどが渇いたのであれば水を飲めば済むだけのことなのである。そうなのだ、この世の中に珈琲で水分補給をしようと考えている人などいないと思う。また熱中症、脱水症対策のために珈琲を飲もうという人もいないと思う。いや、いないと思うだけである。世の中は広い、水分補給のため、熱中症、脱水症対策のために珈琲を飲んでいる方もおられるかも知れない。それはそれで別にかまわない。
ただ少なくとも私はそのような理由で珈琲を飲んではいないし、世の中の多くの方もそうであるのではないかと思うのである。
では、なぜ私は珈琲を飲むのかだ。
おそらく、これは私の勝手な考えではあるが、世の中の多くの方は、私と同じように珈琲を飲む時間を楽しんでおられるのではないかと思う。そうでない方もおられるとは思うが、私は完全に時間を楽しんでいる。だって珈琲を美味しいとは思ったことが無いのだから……それならばコーラでも、オレンジジュースでも、お茶でもいいじゃないかと言われそうであるが否定はしない。基本的にはそうである。何でもいいのである。
しかし、わざわざコーラのために湧水を汲みに行くことはない。オレンジジュースのためにオレンジを栽培することはない。瓶の栓を抜けば飲める。お茶なら、水を汲みに行くことはあるとは思うが、茶葉を自分で蒸したり、手揉みをしたりすることはない。
ところが珈琲には自分が関われる手間が幾つかある。わざわざ珈琲のためにかける手間を楽しめるのである。せっかく珈琲を淹れる手間は、その後の時間を創りだしている。珈琲を飲むという時間を創りだしているのだと思う。
珈琲を飲んでいる時間は、実にゆっくりと流れているように思う。先ほども言ったが、珈琲を飲みながら、新聞を読んだり、テレビを見たり、窓の外の風景を眺めたり、それで物思いに耽っているような勘違いをしてみたり。決して仕事のことなどは、爪の先ほども考えない。この時間が楽しいのである。
この時間をゆっくりと楽しんでいる私は、なんだか自分が文化人になったような錯覚をしているのである。高校生の頃に大人になったと勘違いをしていたのと同じである。
ということで、多少分けが分からなくなってきたが、珈琲は美味しいとは思わないが、楽しい時間を創りだすことが出来る飲み物であると、私は思うのでした。