伯耆の國の御伽草子

お気楽気ままな高齢者のグダグダ噺

鬼の噺(桃太郎異譚) その壱

昔むかしあるところに…… 

 

昔話と申しますと、昔むかしあるところにと始まるものでございますが、このお話もその例にもれず、昔むかしあるところにというお決まりの出だしで始まるお話でございます。 

 

しかし昔むかしと申しましても、お侍さんが刀を持って

「やぁやぁ、我こそは……」

なんて言っていた時代のお話ではございません。

大正という時代が終わりまして、昭和の時代に変わって、あの昭和の大戦が始まろうとする、ちょっと前の昔のことでございます。

 あるところも、岡山県の山奥のことでございます。

岡山県の新見の奥、もう鳥取県との県境に近い、岡山県大卯祖(おおうそ)郡鬼墓(きはか)村という小さな寒村でのお話でございます。

 

 はじめにおことわりをいたしておきますが、このお話は勉強嫌いで学の無い拙老が、このようにいい加減な時代と場所を設定して、思いつくままに語り始めるいい加減なお噺でございます。決してまじめに時代考証をしたわけでもなく、取材をしたものでもございません。そのため中には首をかしげることや、納得の行かない点も少なからずあろうかとは思いますが、いい加減な与太者の拙老が語るいい加減なお噺だと思いお読み頂ければと思います。

 

 さて、今日のお話の大卯祖郡鬼墓村のことでございますが、鬼墓村は中国山地の山と山とに挟まれた深い谷に中にございました。ございましたと申しますのは、鬼墓村は今では村に住む者も無く、数軒の廃屋だけがのこる無人の村となっております。

その昔から鬼墓村は交通の便の悪い処で、また作物を育てる畑地はやっと村の者の食い扶持を満足させる程度で、決して豊かな村ではございませんでした。村の者共は少々の畑作と炭焼きを日々の生業としておりました。

 また鬼墓村は昔から鬼が住んでいる村として恐れられておりまして、周辺の村々の者は、鬼墓村へ行き来することを大変嫌っておりました。そのため村の者共は、時折買い物に出かける以外には、村から出ることはございませんでした。そのせいもあって昭和の時代に入りますと次第に村を出て行く者が多くなり、村のことはすっかり忘れられていったのでございます。

あの昭和の大戦が終わりますと、とうとう村には住む人が一人もいなくなり、今では世の中から忘れ去られた無人の村となってしまったのでございます。

 

 さて、まだ村に何人かの人が暮らしていた頃のことでございます。昭和の大戦の足音が次第に大きくなってきた頃、この鬼墓村に二人の仲の良い兄弟が暮らしておりました。

 

 兄弟は夜が明ける前から、山に入って日が落ちて帰り道が分からなくなるくらいに暗くなるまで山で仕事をする、それはそれは働き者の仲の良い兄弟でございました。

 

 真夏の暑さが厳しさを増した七月のある日のことでございます。その日も兄弟は朝から山林の枝打ちに出かけておりました。

 その日は朝からお天道様が照りつけ、二人が着ております粗末な作業着は汗でびっしょりと濡れて、腰にぶら下げた手ぬぐいからは絞ればボタボタと汗が落ちてくるほどでございました。

やがてお天道様が天高く真上になりましたので兄が

「おう、昼になったが、どうじゃ切りのいいところで、昼飯にしねえか?」

「ああ、兄さん、おいらも腹が減ったと思っていたとこだ。一段落しているので昼飯にしようや」

そう言って兄弟は谷底に流れる小川へ降りて行くと、冷たい小川の水で喉を潤し、ボロボロの手ぬぐいで身体の汗を拭いて、持ってきた弁当の握り飯を小川の縁の岩に腰掛けてむしゃむしゃと頬張りはじめましたのでございます。

 握り飯を食い終わると二人はいつものように草むらにごろりと横になり昼寝をすることにいたしました。二人が横になった草むらは楢や樫の木の葉が程よく太陽の光を防いでくれており、谷を渡る風は涼しく感じられておりました。兄がウトウトとし始めた時でございました。急に弟が

「なあ、兄さん、この世には本当に鬼なんてもんがおるんじゃろうか?」

「どうした急に、なんで、そんなこと聞く……?」

「いやな、兄さん、おいら達の周りの村のもんは、みんなこの村には恐ろしい鬼が住んじょるって言うじゃないか。でもなあ兄さん、兄さんもおいらも鬼なんかじゃねえよな。それに兄さんもおいらも、生まれてからずっとこの村で暮らしておるが、鬼なんて一度も見たことねえよな?なのになして鬼が住んでいるなんていうんじゃろうな?」

「ああ、俺もお前も、いやこの村のもんもみんな鬼なんて見たことはねえと思うな。それに周りの村のもんも、本当は鬼なんて見たことねえと思うぞ」

「じゃろ、なのになんでこの村には鬼が住んでおるなんて言うんじゃろうな?」

「それはな、この村の謂われにあるんじゃよ」

「この村の謂われ?謂われってなんじゃ?」

「言い伝え、昔話のようなもんじゃな。そうこの村の昔話なんじゃな」

「何じゃか難しい話かのう?」

「いんや、ちっとも難しくなんかないわい。お前は“大化の改新”って知っちょるか?」

「何じゃ?その何とかの改新というのは?」

「昔の話じゃ、また“聖徳太子”様という偉いお方がおられたような昔のことじゃ」

「“聖徳太子”様……?聞いたことがないのう?」

「お前は“聖徳太子”様も知らんのか……?まあいい、その“聖徳太子”様がお亡くなりになった後、日本の国の中に天皇様より威張った奴が出てきたみたいなんじゃな」

天皇様より威張るなんて、とんでもない奴じゃな」

「そうじゃ、みんながそう思っていたに違いない。それでそいつをやっつけないけんということで、“中大兄皇子”様と“中臣鎌足”様という方が協力して、その威張った奴をやっつけて、日本の国の新しい決まりを作られたというのが、“大化の改新”といわれておるんじゃ」

「ほお、兄さんは何でも知っておられるな、おいらみたいに頭が悪くて、そのうえ学問が嫌いなもんには、さっぱりわからんことじゃ。で、その何とかの改新というものと、この村とはどんな関係があるんじゃ?」

「実はな、“大化の改新”は“中大兄皇子”様と“中臣鎌足”様のお二人でやったということになっておるんじゃが、大きな仕事はとてもお二人のお力だけでは出来んとお考えになったんじゃ。そこでお二人は他の方にも協力を頼まれたんじゃ。その方とはな、中臣分足(ふみたり)様と中臣潔足(けつたり)様というお方じゃ」

「“中臣鎌足”様のご親戚かなんかか?」

「まあ、そんなところじゃ。“大化の改新”は、天皇様より威張っておった、“蘇我入鹿”という奴をやっつけることから始まるんじゃ。その“蘇我入鹿”をやっつけることを“乙巳の乱”というんじゃが、文足様と潔足様は、その乙巳の乱に間に合わなかったんじゃ。お二人はな、作戦決行の前に桃を食われたようなんじゃが、その桃にあたって腹を下して、作戦に間に合わなかったんじゃ」

「それはまた、大変なしくじりをされたもんじゃな。こっぴどく叱られたんじゃないかな」

「そうらしい、それでお二人は都におれんようになって、いくらかの金を持ってこの谷に落ちて来られたんじゃ。その頃はまだこの谷には誰も住んではおらんかったようじゃ。お二人は谷の奥の、ほれ鬼墓(きはか)神社の辺りに、粗末な小屋をこしらえて、住まわれたそうじゃ」

「そうかあ、哀れじゃの」

「その頃は、この谷のまわりの村のもんは、都から来られた二人を、何か大きな罪で追われた極悪人では無いかと思って恐れたようじゃな。そのうえ、“中臣”という名前を“中鬼”と聞き間違えたようなんじゃ。それからこの谷には中鬼という鬼が住んじょると言われるようになって、誰も近づかんようになったと言うことじゃ」

「お二人にとっては散々じゃの」

「まあ、本当かどうかは知らんが、この二人の名前から、散々な目に合うことを、“文足潔足(ふみたりけったり)”と言って、今では“踏んだり蹴ったり”と言うようになったということじゃ」

「そうか、兄さんは何でもよう知っておられるのう」

「それから誰もこの谷には入ってこんかったようなんじゃが、ある日、道に迷うたものが、お二人が亡くなって、骸になっているのを見つけたということじゃ。まわりの村のもんも、根が悪い者たちでは無い。雨風に晒されていた骸を哀れに思って、お二人が暮らしておられた粗末な小屋の跡に埋めて弔ったそうじゃ。そのことから、鬼の墓がある谷ということで、いつしかこの谷を鬼墓谷と呼ぶようになったようじゃ。そしていつしかお二人を弔った場所に祠を建てた。その祠が鬼墓神社なんじゃ」

「お二人が亡くなられた後は、この谷にはだれも暮らしてはおらんかったんか?」

「そうなんじゃ、この谷はそれ以降も、鬼が住んでおると言われて、だれも近づかん飼ったんじゃ」

「それじゃあ、おいら達のご先祖様はどこから来なすったんかの?」

「それはな、お二人が亡くなられた後、それからずっと後のことじゃ、世の中は戦国の世となっておった。戦国の世は、当然戦に勝った者と負けた者が出てくる。負けた者は落ち武者となってあちらこちらを逃げ回ることになる」

「そうじゃのう」

「この谷は鬼が住んでいると言われて誰も近づかん。落ち武者にとっては、かっこうの隠れ場所じゃった。そのうえ髪を振り乱した落ち武者の姿は、まわりの村のもんから見たら、恐ろしい鬼に見えたんじゃろうな。余計に鬼が住んでいると言う噂が広まって言ったんじゃ。そうなると余計に人が近づかんようになる。そしていつしかこの谷に落人が住み着くようになったということじゃ。まわりの村のもんは落ち武者の村を鬼墓村と呼ぶようになったということじゃ。じゃから、俺らのご先祖様は、どっかの武将で、落ち武者じゃったんじゃないかな?」

「そうか、そしたら、兄さんもおいらも生まれた時がむかしだったら、武将になっとかも知れんな?」

「まあ、そういうことだな」

谷を流れる小川が涼しい音を奏でております。また谷を渡る涼しい風が兄弟を包んでおりました。

「しかし、兄さん」

「なんじゃ、まだ何かあるんか?」

「おいら、さっきからいろいろ考えておるんじゃが、昔話にあれだけ鬼が出てくるじゃろ。本当はどっかに鬼が住んでいるんじゃないじゃろうか?」

「鬼がどっかにいるじゃねえかってか?おるかも知れんし、おらんかも知れんな」

「それにじゃ、鬼はどうしていつも悪もんなんじゃろうな。桃太郎の昔話でも鬼は悪もんだ」

「お前は、桃太郎の話を信じておるんか?」

「ああ、小せえ時に爺様がよく話してくれたもんな」

「お前はよくよく頭が悪いな」

「兄さん、そんなにはっきり言わんでくれ。おいらも頭が悪いことは重々知っちょる」

「まあ、そんなことはどうでもええ。しかしな、桃太郎の話なんぞは、ありゃ全部嘘じゃよ」

「ええ、桃太郎の話は嘘かえ?」

兄はむっくりと草の上に上半身を起こすと

「ええか、だいたい考えてみい。桃から赤子が産まれるわけがねえ。赤子は男と女が何をしてから生まれるもんじゃ」

「男と女は何をするんじゃ?」

「あのなあ、お前の股の間についとるもんを使ってじゃな」

「股の間……?小便をするんか?」

「股の間についとるもんはな、小便をすることだけに使うもんじゃねえんじゃ」

「小便する以外に、何につかうんじゃ?」

「小便をする以外にな……今はそんなことは知らんでもええ、とにかく桃から赤子が産まれるわけがねえ」

「よおく考えてみればその通りだ。第一赤子が入っている桃なんて、今まで見たことねえもんな」

「じゃろう。それにだ、桃太郎の話に出てくる、爺さんと婆さんはえらい年寄りだ。あんな年寄りの婆さんが赤子を産めるとは思えん。桃太郎の話は全部嘘じゃ」

「じゃあ、本当の話はなんじゃろうかの?」

弟もその場に上半身を起こしました。兄は近くに落ちていた木の枝を拾うと、遠くの山をその枝で指して

「あの山の向こう、ここから半日ほど歩いたところに、大卯祖村という村がある。桃太郎の話はその大卯祖村の者が作った作り話なんじゃ。桃太郎の話だけじゃねえ、猿蟹合戦も、花咲か爺も、みんなあの山の向こうの大卯祖村の者の作り話なんじゃ」

「そうなんじゃあ?それじゃあ兄さんは本当の話を知ってなさるか?」

「ああ、俺は本当の話を知っとるぞ」

「なあ兄さん、ひとつその本当の話を聞かせてもらえんじゃろうか」

「ええじゃろう」

兄は枝をポイと捨てると、今度は草を引きちぎって、その茎を咥えて、少し噛みちぎると、ぺっとその場に吐き出して話し始めました。

 

「ええかあ、昔むかしあるところに……だいたい昔話というものは、このように昔むかしあるところにという出だしで始まる話が多い。そもそも俺はこれが嘘の証拠じゃと思っておる。昔むかしあるところにと言って、時と場所を曖昧にしておく。そうすることによって、どこの誰のことじゃかわからんようにしておるのじゃ。本来話と言うものは、何時、何処の、誰が、何をしたとはっきりしておるもんじゃ。それを曖昧にするというのは、嘘じゃと言っているようなもんじゃ」

「じゃあ、兄さんのお話は何処の誰の話かはっきりしているんだな」

「ああ、その通りじゃ……。しかしな、実のところはな、そうは言うもんの、何時のことかと言うと、これが今ひとつわからん。と言うのは、この話は、俺が爺様から聞いた話なんじゃが、その爺様も、爺様の爺様から聞いた話らしくて、何時の時代の話かは、ようわからんようじゃ。爺様の爺様が言うことには、戦乱の世が終わって、徳川のお殿様の時代になった頃の話らしい。しかしな、場所ははっきり分かっている。あの山の向こうの大卯祖村の話じゃ」

 

 さて、みなさま、兄さんの語では回りくどくて、なかなか先へ進みませんので、此処から先は拙老がお話させて頂きましょう。

 

 昔むかし、戦乱の世が終わって徳川のお殿様の世になったころのことでございます。備中の国の山の中に卯祖の郷(さと)と呼ばれる一帯がございました。卯祖の郷は大卯祖村を中心に幾つかの小さな村々で出来た静かな郷でございました。

 備中の国の山の中と申しますと、中国山地の山々に囲まれまして、耕作出来る土地も少なく、貧しい村が多かったのでございますが、卯祖の郷の中心の大卯祖村はこの辺りでは珍しく開けた場所で、田畑に適した土地も多く、豊かな暮らしの出来るところでございました。

 大卯祖村には二人の大旦那様がおられました。

 お一人の大旦那様は桃蔵小竹様と申しました。奥様のお名前は小梅様と申しました。お二人には小松太様という、三十歳を前にしたあと取りの息子様がおられました。お二人はすでに還暦を過ぎておられましたが、まだ代を息子様には譲らず、桃蔵家の当主として采配を振るっておられました。と申しますのは、息子様の小松太様は……まあ、その話は後でゆっくりいたしましょう。

桃蔵の小竹様、小梅さまは、それは、優しい優しい出来た方でございました。桃蔵様は村の東半分の土地を持っておられましたので、東屋の大旦那様と呼ばれておられました。また優しいお人柄と桃蔵という姓から、桃の小竹爺様、桃の小梅婆様と呼ばれて、村人から慕われておられました。

 もうお一人の大旦那様は、鬼村洋蔵様というお方でございました。奥様のお名前は弦子様と申しました。鬼村様は桃蔵様とは正反対に、えらくケチなお方で、また大変意地の悪いお方だったようでございます。鬼村様は村の西半分の土地をお持ちでしたので、西屋の大旦那様と呼ばれておりました。また村の者は陰では、ケチで意地の悪い鬼村様のことを鬼の洋蔵、または因業爺の洋蔵、奥様のことを夜叉の弦子と呼んでおりました。

 

「兄さん、さっそく鬼がでてきたのう」

「なに、お名前は鬼村さん、鬼の洋蔵さんじゃが、鬼ではない。話の続きを聞こうや」

 

 さて、話に戻る前に、卯曽の郷の別の村も紹介しておきましょ。

 

 大卯祖村から東に半日ほど行ったところに、花久祖(はなくそ)村という村がございます。そして花久祖村には、花蔵様という旦那様がおられました。

 花久祖村は、大卯祖村と比べますと、土地も痩せており、また山と山に囲まれて日当たりも悪い土地でございましたので、作物の出来は決していいものではございませんでした。そこで花蔵家では代々、炭焼きや土木作業の人足の口入れ稼業を生業としておりました。

 花蔵様には三人の息子様がおられました。一番上の息子様は、お名前を犬太郎様と申しまして、田畑の開梱や治水に関しての技術を身につけておられまして、たくさんの人足を使って、近郷の村々の治水工事や田畑の開梱を生業としておられました。2番目の息子様は、お名前を臼次郎と申しまして、花久祖村からさほど遠くない町で餅屋を営んでおられました。三番目の息子様は、お名前を灰三郎様と申しまして、腕のいい植木職人でございました。このように三人の息子様はそれぞれに仕事に励んでおられまして、その稼ぎの殆どを花蔵様の家に入れておられましたので、花蔵様の暮らしは豊かなものでございました。

 また花蔵様は、大卯祖村の桃蔵様とはご親戚の関係でございました。

 

 さて、お話を大卯祖村に戻したいと思います。

 

 大卯祖村は豊かな土地ではございましたが、それは村の東半分のことでありまして、西半分はと申しますと、東半分に比べて見劣りのするものでございました。

 そのため毎年秋の収穫の頃になりますと、花蔵様のお蔵には米の俵が山のように積まれたのでございますが、鬼村様の蔵にはその半分も無かったようでございます。鬼村様はそのことが悔しゅうて、悔しゅうてならず、いつかは桃蔵様のお持ちになっている、村の東半分の土地を奪ってやろうとお考えになっていたようでございます。

 

「のう兄さん、何時の世にも悪いことを考える奴はおるもんじゃな」

「そうじゃな」

 

 さて、その桃蔵様でございますが、暮らしは豊かで、何一つ不自由は無いようでございましたが、実は桃蔵様には心をお痛めのことがございました。

 

「桃蔵様は、何に心を痛めておられたんかのう?」

「話を進めてもらおうかのう」

 

 少し前にお話をさせていただきましたが、桃蔵様には小松太(こまつた)様というあと取りの息子様がおられました。息子様と申しましても、三十歳を超えた立派な大人でございます。しかしこの息子様が……ご親戚の花蔵様の三人の息子様は、働き者の孝行息子様でございましが、小松太様はと申しますと、なんと申しましょうか、その、あまり出来の良い方では無く、素行も乱暴なところがあり、また学問にはちっともご興味を示すこと無く、博打と酒と女に明け暮れる毎日でございました。もちろん稼業を継ごうなどという考えはなく、毎日をブラブラと遊び仲間と過ごしておられました。花蔵の旦那様にとっては、息子の小松太様のこのようなご様子に心を痛めておられました。

 

 梅雨が明けて、日に日に暑さが厳しくなってきた頃のことでございます。その日も小松太様は遊び仲間の辰蔵さんと朝から酒をちびちびと飲んでおられましたが、辰蔵さんとの話が女の話になったのでございます。

 小松太様は男にしては小柄で、色も白くどこか病弱なお方でございましたが、性格はと申しますと、わがままで気が短く少々乱暴なところがございました。

 一方、小松太様の遊び仲間の辰蔵さんは、身の丈六尺はあろうかという大男で、体格もガッチリとし、色も日に焼けて黒く、お顔は太い眉がつり上がって、まるで仁王様のようでございました。性格も小松太様と同様に気が短く喧嘩っ早いお方でございました。

 しかし小松太様と辰蔵さんは、気が合うらしく何かと言うとお二人で遊んでおられたのでございます。

「しかし辰よ、この村の女ときたら、みんなおなんじようなおかめみたいな顔をしてやがんだ。あぁあ、目の覚めるような別嬪にお目にかかってみてえもんだな」

と小松太様はご自分のお顔のことは棚に上げて話しておられました。

「そうでげすねぇ若旦那、確かにこの村の女ときたら、どいつもこいつも不細工な顔をしやがって……しかしねぇ若旦那、俺も見たこたぁねえが、花久祖村の向こうにある、花魅頭(はなみず)村には、なんでも備中一という別嬪がいるって話ですぜ」

「本当かあ?辰の話は信用できねぇからな。本当に備中一の別嬪がおるんか?」

「ですから若旦那、俺もこの目で見たわけではねえんですがね、名前はお宮っていう、歳の頃は三十前の女ざかり、その姿ときたら江戸の錦絵から出てきたように美しく、こんな山の中ではめったにお目に書かれないような美人らいしいですぜ。それに何でもそのお宮の肌は真っ白で、肌肉玉雪と称えられるくらい白くて透けるようだそうだ」

「へえ、そんな美人が本当におるんかいのう。本当におるんなら、一度お目にかかってみたいもんじゃな」

「どうじゃ若旦那、まだ朝が早え、これから花魅頭村まで行ってみやせんか?」

「しかし花魅頭村といやあ、こっから半日はかかるんじゃねえかい」

「半日かけてもおしかねえ別嬪かも知らやせんぜ」

「どうせこうしていても、うちの婆さんの小言を聞くのが精一杯だ。そうしてみるか」

ということで、小松太様と遊び仲間の辰蔵さんは、花魅頭村まで出かけてみることにしたそうでございます。

 

「おい、婆さん、握り飯をこさえてくんねえか。そうだ辰の分も頼む」

「握り飯なんぞこさえて、どうなさるんじゃ?」

「これから花魅頭村まで行ってくらあ」

「花魅頭村……?なんでまた花魅頭村なんぞに」

「なに、ちょっと野暮用さ。すぐにけえって来るから心配はいらねえ。さっ、握り飯をこさえてくれ」

「花魅頭村と言えば、乱暴な博労や、性悪の渡世人がごろごろ居るって言うじゃないか。悪い奴らに引っかからんようにしんさいよ」

 

説明が遅れましたが、卯祖の郷の生業のひとつに牛飼いがございました。そのため年に何度か牛馬市が開かれておりました。花魅頭村はその牛馬市が開かれる村でございまして、卯祖の郷はもちろん、近郷の村々からもたくさんの博労が集まって来ておりました。そうなるとその博労相手の一杯飲み屋が出来、また博労の遊び場に博打場が出来まして、そしますっていうと女郎屋も何軒か出来ました。そうなりますと、どうしても渡世人も多くなり、村はいつしか遊び人の集まる遊興の村となっておりました。

「なあに、大丈夫だ。辰も一緒だ、安心してくれ。それより、早う握り飯をこさえてくれ。昼前には峠を越して、晩暗くなる前にけえって来てからな」

 

小松太様は小梅婆様に握り飯をこさえてもらいますと、さっそく辰蔵さんと花魅頭村に向かって歩き出しました。

 

 大卯祖村から花魅頭村へ行くには、村の東の外れを流れる桃栗川を越えなければなりません。

桃栗川は大卯祖村の北にそびえる桃栗山を源流を発する川でございます。その川の水は桃蔵様の田畑を潤し、豊かな実りをもたらしておりました。また桃栗川はたいへん綺麗な水でございまして、夏には冷たく、冬には温かく感じられるのでございました。そしてその清らかな水は桃蔵様のお屋敷の裏を流れておりました。そのため桃蔵様のお屋敷では、小竹爺様は上流の水で茶の湯を楽しまれ、また小梅婆様は下流の水で野菜を洗ったり洗濯をしたりして、この桃栗川を大切にしておられました。桃蔵様の裏手を流れました桃栗川はやがて旭川に合流し、遠く岡山のご城下まで流れて行くのでございました。

 その桃栗川にかかります桃栗橋を渡って一刻ほど歩きますと花久祖村に入ります。お二人が花久祖村に入る頃には太陽はもうすぐお二人の真上になろうとしておりました。

 お二人が花久祖村の花蔵様のお屋敷の前まで来ると

「おお、これは桃蔵様の若旦那さんじゃないですか?今日はどうされました」

と声をかけてくるものがございます。小松太様が声の方を見ると、花蔵様のご長男の犬太郎様がお屋敷の前の水路の中におられました。

「あれ、これは花蔵の犬太郎さんじゃないか。そんなところで何をしちょうなるか?」

「いやね、最近屋敷の前の溝の流れが悪いもんで、ちょっと底でもさらってみようかと思いましてな」

「そりゃ精が出るのう。そうやって底をさらっていると、なんぞお宝でも出てきやせんかのう?」

「お宝なんて出てこんわいな。出てくるのは、ほれ泥と汗だけじゃ……ところで若旦那、そんな恰好で今日はどうなされました?」

「なあにちょっと花魅頭村まで行ってみようかと思いましてね」

「花魅頭村……?また何の御用で?」

「いやあ、特に用はねえんだが、ちょっと野暮用でね」

「そうですか……??花魅頭村というと、最近、根性悪の奴らが多いと聞いております。気を付けて行きんさいな」

「なあに、ご心配には及びませんよ。この辰がいるんだ。この辰ときたら、そんじょそこらの性悪以上に悪い。それに喧嘩がめっぽう強いときているから……辰にねえのは、脳みそと金だ」

小松太様がそう言うと、辰蔵さんがすかさず

「若旦那、そいつはひでえや」

「まあいいじゃねえか、それより辰、先を急ごうや、お天道様は待っちゃあくれねえ、暗くなる前にはけえってきてえからな」

「そうでやんすね」

「そんじゃ、犬太郎さん、ちょっくら行ってくらあ。犬太郎さんも暑いから無理せんように気張んなさいよ」

「ありがとうございやす。若旦那も道中お気を付けになってくださいよ」

そう、挨拶を交わすと、小松太様と辰蔵さんはまた花魅頭村に向かって歩き出したのでございます。

 花久祖村から花魅頭村へ行くには、鬼墓峠と申します峠を越えないといけません。鬼墓峠は峠と申しましても、それほど険しい峠ではございません。だらだらとした上り坂を小一刻も登りますと、鬼墓峠の天辺に出てまいります。

 峠の天辺で道は左右に分かれ、右の道を進むと花魅頭村へと続くのでございました。ただ今拙老が道は左右に別れと申しましたが、道が左右に別れていることが分かる者はほとんどおりませんでした。と申しますのは、右の花魅頭村に向かう道は通る者も多く、はっきりと道であることがわかるのですが、左の道は通るものはおらず、雑草が鬱蒼と生い茂っており、とても道であることなどわかりません。ですのでこの峠を通るものは道に迷うようなことはございませんでした。

 お二人が峠の天辺に立たれると、花魅頭村はすぐそこに見て取れました。

「辰、どうだい、花魅頭村はすぐそこだ。ここらで腹ごしらえでもしようじゃないか」

「若旦那、そうしやしょう。俺も腹が減って目が回りそうで……」

お二人は思い思いに腰をかけると、水入れに入れてまいりました、桃栗川の水で喉を潤すと、持ってきた握り飯を食べ始めました。

 握り飯を頬張りながら辰蔵さんが

「しかし若旦那、この鬼墓峠ですがね、日当たりも良くて明るくて、見晴らしもいい。とても鬼がいそうにはねえんですが、なんで鬼墓なんて気味の悪い名前がついているんでやんすかね?」

「それはな辰よ、この左の道を半日ほど行くとな、なんでも鬼墓村と言う村があるらしい」

「左の道……?」

「ほれ、その草が生い茂っているところ、よく見ると何となく行けそうな気がしねえかい?」

「確かに、言われてみれば、道のような、しかし、誰もこれが道だなんて気が付かんでしょうな。この先に鬼墓村があるんでやんすか?」

「ああ、俺も行ってみたこたあねえが、俺の爺さんの話では、何でもその昔、尼子の落ち武者が住み着いたとかいうことだ。しかしな落ち武者どもは追手から逃れるために、その姿を見せずに隠れ住んでいたらしい」

「今でも誰か住んでいるんでやんすかね?」

「さあてな?住んでいるかも知れんし、誰も住んでおらんかも知れん。もしかしたら鬼が住んでいるかも知れんな。どうだい辰、今度は鬼墓村探しでもしてみようか?」

「若旦那、勘弁してくんなさい。博打や女にはいくらでも付き合いやすが、肝試しは苦手でござんすよ。鬼墓村探しは若旦那一人でおねげえしやすよ」

「なんだ、決行だらしがねえな。まあいいや。さて先を急ごうや」

お二人は握り飯を包んでいた風呂敷を袂に押し込むと花魅頭村への下り坂を歩き出されました。

 

 峠の天辺から花魅頭村までは、だらだらとした下り坂を小半刻ほど下ると村の外れに差し掛かります。

 

もともとこの花魅頭村は山と山とにはさまれた狭い土地でございまして、その狭い土地を耕して僅かな者が静かに暮らしておりました。

花魅頭村には牛馬を祀った丑午(うしうま)神社がございました。そのため年に二回春と秋の祭りにこの辺りの牛飼いを相手にした牛馬市が開かれておりました。牛馬市は決して大きな市ではございませんでしたが、それでも牛馬市の頃になりますと、あちらこちらから博労が集まってきて村はにぎやかになるのでございました。

 はじめはその祭りの頃だけ、市の周りで食い物などを売る露天の店が出来ておりましたが、いつしか年中店を出して商いを行う者が出てきまして、やがて小さな商人の集落が出来て参りました。

 そうなりますと、祭りの時以外でもたくさんの人が集まって来るようになりまして、やがて博打場や女郎屋なども出来てまいりました。博打場や女郎屋が出来てきますと、世の習いに従って良くないことを行う罰当たりも出てくるものですから、村では夜中の出入りを禁止しして自警のために石垣の土塁を築いて村の警護にあたったのでございます。また女郎屋から女郎が逃げ出さないように、石垣のまわりには堀が掘られたのでございました。

 このようにして花魅頭村はいつしか小さな砦のようになって行ったのでございまして、近郷の村の者の中には、花魅頭砦と呼ぶ者もおりました。

 

花魅頭砦は南北一町半、東西に二町の東西に長い四角い土地のまわりを高さ一間程の石垣の土塁で囲み、その土塁の外側を幅三間、深さ二間の堀が囲んでおりました。村は東西に道が通っており、村に入るには西または東の堀にかかりました橋を渡らなければなりませんでした。そして西の入口には、西の大門、東の入口には東の大門と呼ばれる門がございました。

東の大門を入りますと、西の大門に向かって幅六間の広い通りが村の真ん中にございまして、この通りが花魅頭大通りでございます

ちょうど東の大門から一町ほど入りましたところに今度は南北に同じく幅六間の通りがございまして、この通りを仲の通りでございます。この花魅頭大通りと仲の通りが交わりますところを、花魅頭の角と呼んでおりちょうど村の真ん中にあたるところでございます。

このように花魅頭村は、花魅頭大通りと仲の通りで四つに分けられておりまして、それぞれ東側の二つの場所を上東町、下東町。また西側も上西町、下西町と呼ばれておりました。それぞれの町には、それぞれの商いがございまして、下西町には食い物を扱う店が多く。上西町には女郎屋、上東町は博打場、そして下東町には村を取り仕切る名主、組頭、役人の住まいがございました。まあ名主、組頭と申しましても、いわゆる渡世人の親分さんでございます。

東西の大門は、夜明けとともに開けられ、夜は四つ時になると閉めらて、夜中に村を出入りすることは出来なかったのでございます。

 

 またもともと村で百姓をしていた者は、この石垣と堀で囲まれた花魅頭砦の周りで、昔ながらの静かな暮らしをしておりました。

 

 このように花魅頭村はいつしか牛馬市の村から、遊興と任侠の村へと変わって言ったのでございました。

 

 

 さて、お二人が西の大門の前に立って村の様子を伺いますと、道幅六間の花魅頭大通りの両側には様々な店が軒を並べ、どの店の軒下には提灯が下げられております。大門をくぐって中に入りますと、それはもう華やかで祭りの様でございます。

まだ昼過ぎだというのに、どこからか三味線に太鼓の音が聞こえてまいります。通りは流石にまだお昼を回ったところでございますので、人の姿はまばらではございますが、小松太様の村では見ないような派手な柄の着物を着た若い衆が数人歩いておりました。

「若旦那、こりゃまるで盆と正月のうえに、ひな祭りに端午の節句、そいから春と秋の彼岸が一遍に来たようでやんすね。」

「そうだな、何でも最近では、岡山の城下からも遊びに来るって話だ。さぞかし儲けている奴がいるだろうな。何でもこの花魅頭村では一晩で五百から八百両の金が動くというじゃねえか」

「そりゃ豪勢でやんすねぇ、そうなると花魅頭長者の一人や二人はいそうでやんすねぇ」

「それより辰、その別嬪さんを探そうじゃないか」

「へい」

 お二人はそう言うと、大門のうちへと入って行って行かれたのでございます。大門の内に入りますと、すぐにうどん屋、団子屋などの食い物を商う店が並んでおりました。

 

「おい辰、まずそこの一膳飯屋で一杯やろうじゃないか?」

「ようござんすね」

そう言って小松太様は一膳飯屋の縄のれんをくぐるなり、奥に向かって

「おい、親父、冷でいいから酒を三合ほど持ってきてくれないか。それからぐい呑では小せえ、湯呑みを持ってきてくれないか」

「へーい、少々お待ちを」

店の奥から、残り少なくなった白い髪を頭の後ろでちょこんと結った飯屋の親父が、そのしわくちゃで頬がこけて歯も抜けた顔を奥の暖簾から覗かせて返事を返すと

「それから何でもいいから、肴になる物を頼む」

「へい、芋の煮っころがし、焼き豆腐の炊いた、油揚げの甘煮、蒟蒻の田楽などがすぐに出来ますが?」

「なんだか、盆の精進料理みてえだな」

「あいすいません。夜になれば、魚や鳥なんぞも用意出来るんですが……今日はまだ品が入って無いもんで」

「まあいいや、適当に持ってきてくれないか」

「へい」

しばらくすると飯屋の親父が酒と肴を運んでまいりました。

 小松太様は辰蔵さんの湯呑みとご自分の湯呑みに酒を注ぐと、一気に飲み干して

「親父、これは美味めえ酒だな。何処の酒だい?」

「へい、ありがとうございます。この酒はでございますね、ほれ二つほど山向の香津山という町の造り酒屋の御前酒という酒でございます」

「そうかい、これが御前酒かい。いやあ、話には美味いと聞いていたので、一度呑んで観たいと思っていた酒だ……美味いね」

小松太様は上機嫌でございました。小松太様は二杯目の酒をグイッと呑んで、肴の芋の煮っころがしをひとつ口に放り込むと

「ところで親父、この村には何でも絶世の別嬪がいるっていうじゃないか?その別嬪さんは何処に行けば拝めるもんかね」

「へえ?そりゃこんな村でございますので、女子衆はたくさんおります。たくさんおりますが、絶世の別嬪と言われましてもねぇ、いや、そりゃ綺麗な女子衆はたくさんおるにはおりますよ、まあ、そうでないのもたくさんおりますがねぇ。しかし絶世の別嬪と言われると……ねぇ? さて何処の誰のことやらねぇ?」

「なんでも、歳のころは三十前、名前は……? おい、辰、名前は何だったけな?」

「へえ、確かお宮とか……?」

お二人の話を聞いていた親父は

「名前がお宮で、歳が三十前……? あっしもこの村でこんな商いをしておりますので、大概の女子衆の顔も名前も知っておりやすが、歳が三十前でお宮という名前は聞いたことがねえですねぇ。いや確かにお宮というのがいるにはいますが、しかし歳はもう六十を過ぎた婆ですがね。それも旦那、うちのカカアですけどね。へへへ……」

「婆あには用がねえな。なあ辰、その話は何処の誰から聞いたんだい?もう少し詳しく教えてくれねえか」

「それが若旦那…… おいらも又聞きの又聞きでやんしてね。何処の誰と言われましても……ねぇ?」

「なんだい、何だい、それじゃ皆目分からねえじゃねえか。だからお前の話はいつも頼りねえんだよ。これじゃ今日は無駄足じゃあねえか。おい親父、酒をもう二合持って来てくんな」

 急に小松太様のご機嫌が悪くなったのを見て飯屋の親父が

「へい、何のお話か良くわかりやせんが、まだ日が高うございます。あまりお呑みにならない方が……」

「やかましい!つべこべ言わずにさっさと酒を持ってこい」

すっかり機嫌を悪くしてしまった小松太様を見て、辰蔵さんが悪そうに

「若旦那、許してくださいや。そのかわりにちょいと遊んでいきやせんか?」

そう言って辰蔵さんはツボを振る仕草をして見せながら

「なあ、親父、今時分から遊べるところはねえかい?」

「そうでございますねぇ、ここを出て東へ一町ほど行かれると、花魅頭の角になりやす。その角を北へ上がったところに花菱屋というところがあります。表向きには小間物屋でございますが、裏へ回れば今時分からでも大丈夫かと……」

「あんがとよ。若旦那、ここは機嫌を直して、ちょっと遊びに行きやせんか?」

小松太様は天井を見てふてておられましたが、博打はもともとお嫌いではございません。

「しょうがねぇな。辰が言うならそうでもしようか。おい親父いくらだい?」

飯屋の勘定を済ませて店の外に出ると、辰蔵さんが

「確か親父が、東へ一町、その角を北へと言ってましたね」

と道を確かめております。小松太様はお酒のせいでフラフラと足元が定まりません。

「なあ辰、これから行くのもいいが、おいら、ちょっと呑み過ぎたようだ。酔い覚ましにその辺をぶらっとしようではないか?」

「へい、ようござんすよ」

そう言うと小松太様はふらふらとまた西の大門から外へ出て行かれました。

 大門の外は畑が広がっており、夏のお天道様が容赦なくお二人を照りつけております。肌を刺すようなお天道様の下では、とても酔を覚ますどころの話ではございません。たまらず小松太様が

「こりゃ暑くてたまらん。ただでさえ昼間の酒はよく回るというのに、こうもお天道様に照りつけられたんじゃ、腹の中で酒の燗が出来ちまう。どこか涼しいところはないか?」

「若旦那、あそこにこんもりとした杜がありやすぜ、あの杜の中に行きやしょうや」

辰蔵さんが杜と呼んだのは、この村の北側の山にございます、村の氏神様でもあります、丑午神社の杜でございました。お二人は木陰を求めて杜の中に入って行かれました。

 丑午神社の杜は、樹齢何百年という大きな木々に覆われた静かな杜でございまして、流石の夏のお天道様の日差しもその木々の枝々に遮られて、杜の中間では届きはしておりません。そのため杜の中は涼しく一休みするには恰好の場所でございました。また杜の横を花魅頭村の奥にあります鬼墓山に源を持つ川が流れており、その川の流れが杜の涼しさをより高めておりました。

 小松太様と辰蔵さんは杜の中の倒木に腰掛けて一息付きますと、杜の中は鬼墓山から吹き降ろしてくる風はとても夏の風とは思えないくらい涼しく、お二人の額に吹き出していた汗をひかせたのでございます。

小松太様は「ふぅ」っとため息を一つついて杜の奥に目を向けられました。そこには古びた粗末な鳥居があり、その奥には丑午神社の小さな小さな祠がございました。

 小松太様はしばらくその小さな祠を見るでも無く眺めておられましたが、今度は小川の方へ目を向けられました。小松太様は川の縁に人影があることに気が付かれました。小松太様のところからはその人影まで少々離れておりますので、よくわかりませんが、どうやら女が川で洗濯でもしている様子でございます。小松太様は辰蔵さんに小声で

「おい辰、あそこに誰かいるようだが?」

「へぇ、誰か洗濯でもしているようでやんすね」

「どうれ、ちょっとお顔でも拝見しようじゃねぇか」

「よしてくださいよ若旦那。今時分に洗濯なんぞしている女は婆あに決まってますぜ」

「そんなことわかるもんか。見てみなきゃわかんねぇじゃねぇか?辰、もちっと近づいてみようじゃねぇか」

「そうですかい?」

そう言うとお二人は足音を忍ばせて、川の方へ近づいて行かれたのでございます。

 人影に近づいて見ますと、歳の頃は十五、六と思われる娘でございました。

 捲り上げた絣の着物の裾から覗いた赤い襦袢からは、それはそれは真っ白な腿が、またたすきで捲り上げた着物の袖からも、腿に劣らね白い腕が伸びておりました。顔はと申しますと、手拭いを姉さんかぶりにしておりますので、はっきりとはわかりませんが、なかなかに整った顔立ちに思われました。小松太様は

「どうだい、なかなかの上玉じゃぁねえか」

「しかし若旦那、まだ子どもでやんすよ」

「たまらねぇ、辰、見てみろい柔らかそうな腿じゃあねぇか。それにいい尻をしていやがる。ああ、あの尻にむしゃぶりつきてぇなぁ」

「若旦那、冗談はいけやせんよ」

「辰、我慢なら無くなってきた。ここなら人に見つかる心配はねぇ。辰、お前の得意な当身で、あの娘をしばらく眠らせてくれねえか」

「よしてくださいよ若旦那、相手はどう見てもまだ子どもですぜ。もし花魅頭村のやくざの娘だったら後が面倒なことになるかも知れやせんぜ」

「やくざの娘がこんなところで洗濯なんぞしている分けがねぇ。なあにここなら大丈夫だ。誰も来やしねぇ。辰、しばらく誰も来ねえように見はっていてくんねぇか」

「仕方がねぇなぁ。若旦那は言い出したら聞かねぇんだから。おいらはよした方がいいと思うんですがねぇ」

そう言うと辰蔵さんはゆっくりと娘の後ろに近づいて行かれました。娘は洗濯に気を取られて辰蔵さんに気が付きません。

「娘さん、ちょっと道を尋ねたいんだが」

と娘に声をかけたのでございます。びっくりした娘が立ち上がり振り向きざまに、辰蔵さんは娘のみぞおちに当身を一撃入れると、娘はその場に気を失って倒れこんでしまいました。

 小松太様と辰蔵さんは娘を茂みの中に引きずり込むと

「辰、悪いがしばらくその辺で見張りをしていてくれねぇか」

「へいへい、若旦那にゃかなわねぇな。そんじゃあ、その辺におりやすんで、ごゆっくり……」

そう言うと辰蔵さんは杜の中に入って行かれたのでございます。

 

 辰蔵さんがさっきまで腰掛けていた倒木のところまで戻って、また腰をかけて一息つかれたころでございます

「辰、待たせたな」

と小松太様が戻って来られました。

「あれ若旦那、早いお帰りで、まだ四半刻も経っちゃいやせんぜ。もうおしましですかい?」

「やかましい。俺は仕事が早いんだ」

「で、どうでした?」

「それがな辰よ、おぼこ“未通女”だったぜ」

「後で騒ぎになっても、おいらは知りやせんぜ」

「大丈夫だ、娘の懐にいくらかの銭を入れておいた。それに顔は見られちゃいねぇ。用は済んだ。早えこととずらかろうや」

小松太様がそう言うと、辰蔵さんも立ち上がり、足早に杜を出て行かれたのでございます。

 

 困ったものでございます。小松太様はとんでもない過ちをしでかしてしまわれたのでございます。

 

 夏のお天道様は、もうすぐその姿を西の山に隠そうとしておられました。

 

「兄さん、なんだかよくわからないが。なかなか桃太郎の話にならないな?」

「まあ、ゆっくり聞け。これから桃太郎もでてくるから」

 

                         つづく