ボクは選ばれた人間
“慎重に審査を行った結果、誠に不本意ながら貴意に添いかねることとなりました。
つきましては、ご提出いただきました履歴書等を同封いたしましたので、お受け取り下さいますようお願い申し上げます。
誠に恐縮ですが、貴殿の多方面でのご活躍を心よりお祈り申し上げます。“
「ちっ」
いつも同じことばかり書いてある。
ボクは送られてきた不採用通知をクシャクシャに丸めると、部屋の隅においてあるゴミ箱に向かって投げた。クシャクシャに丸められた紙はゴミ箱に向かって弧を描いて飛んでいった。しかし不採用通知はゴミ箱には入らずゴミ箱の縁にあたってカサっと床に落ちた。
「ちっ」ボクはまた舌打した。
「ちっ、ゴミ箱にも入れないのか」
ボクは椅子から立ち上がると、ゴミ箱の横に落ちている不採用通知を拾い上げると、今度はゴミ箱の中に力を込めてグイッと押し込んだ。
6月の終わり。まだ本格的な夏では無いというのに、南向きのうえにエアコンの無いボクの部屋はやけに蒸し暑い。じっとしていても、シャツが肌にひっつきついて気持ち悪い。窓の外の梅雨のどんよりとした空が一層ボクの気分を落ち込ませた。
くそ、いったいボクの何が悪いと言うんだ。
ボクは大学だって出ているし、簿記の資格だって持っている。事務職としては何一つ不足なんて無いはずだ。なのになぜ不採用なんだ。ボクの何が悪いと言うんだ。
ボクの名前は押琴照気留(おしごとできる)、昭和五十一年生まれの四十歳。もちろん独身。まあ、威張っていうことでは無いかもしれないが、ボクは結婚出来ないのではなくて、結婚しないのである。
なぜかと言うとボクは選ばれた人間だからだ。
ボクはこの小さな町の公立高校の普通科を程々の成績で卒業した。程々の成績だったのは、ボクが勉強が出来なかったからではない。ボクは勉強をする必要性を感じていなかったし、ボクは高校では学ぶものなんて何も無いと思っていたからだ。
なぜかと言うとボクは選ばれた人間だからだ。
ボクの父ちゃんは県の職員で、定年まで県庁で仕事をしていた。何をしていたのかは知らないが、係長と言う偉い役職に就いていたらしい。父ちゃんは晩ごはんの時に
「係長は辛いよ、一番仕事が多いんだ」
とよく話していた。
ボクの母ちゃんも税務署で定年まで仕事をしていた。そしてボクの爺ちゃんも県の職員で、その爺ちゃんの父ちゃん、つまり、ボクの曾祖父ちゃんも役人だったらしい。つまりボクの家は代々公務員の家系なのだ。
だからボクも必然的に公務員になることになっていた。だからボクは選ばれた人間なのだ。小さな時から父ちゃんと母ちゃんは
「うちは代々公務員の家なの、お前も将来は公務員として働くんだよ」
と言っていた。
だからボクは勉強なんかしなくたって公務員になる人間なのだと思っていた。公務員と言う仕事が何をしているのかなんて知らないが、ボクは公務員になるものだと思っていた。
どうせ公務員になるのなら父ちゃんが国家公務員になれというので、国家公務員というのになってやろうとボクは考えて、高校を卒業したら大学に進学することにした。しかしどうせ何もしなくても公務員になる人生なのだから、できるだけ勉強をしなくていい大学がいいと思って、ボクは東京の奈母啼(なもなき)大学に入った。
奈母啼大学は東京の早稲田大学の近くといえば近くにあって、
「どこの学生さん?」って聞かれると、
「早稲田にある大学です」って答えることにしていた。
すると大概みんな早稲田大学の学生だと勘違いしてくれた。断っておくがボクは一回もどこの大学って聞かれて
「早稲田大学です」と言ったことはない。
必ず「早稲田にある」と、さも早稲田大学の学生のような顔をして答えていただけだ。
しかし学生の時はよく遊んだ。学生生活で必要なお金は全て父ちゃんと母ちゃんが送ってくれていた。遊びでお金を使いすぎて足らなくなってもすぐに送ってくれた。遊ぶお金に不自由したことは無かった。思えばボクの今までの人生で一番楽しかった時だったも知れない。
ボクは公務員になるには公務員試験を受けないといけないことを、大学の四年生の時に初めて知った。それまではボクは選ばれた人間なのだから、大学を出るとそのまま国家公務員という公務員になって、霞が関で仕事をするのだと思っていた。それがなんだ、公務員になるには試験があるなんて露ほども知らなかった。
ボクが大学を卒業するときは、バブルだかシャボンだか分からないが景気のいい時代が終わって、そのバブル景気かシャボン景気が、山崩れとか崩壊とかいうやつを起こして日本中が不景気になった。リストラという言葉が日本中に溢れかえっていた。
そしてボクらの就職活動もその影響をもろに受けた。いわゆる就職氷河期と呼ばれて、みんな就職活動で苦戦を強いられるようになった。
本当ならボクには就職活動なんて関係無いと思っていたが、ボクもその影響をもろに受けた。というのは一般の企業は不安定だからと言って、みんなが公務員を目指し始めたからだ。みんなが公務員試験を受けるようになったからだ。
みんなが公務員試験を受けるから、当然倍率も高くなる。本当なら黙っていても合格するはずだったボクなのだが、その年の公務員試験は不合格となった。当然ボクは浪人することになった。
なんだかその当時のボクは、まるで芥川龍之介の「くもの糸」に出てくるカンダタのように、公務員試験というくもの糸に群がってくる学生たちを蹴落としてやりたい気分で一杯だった。
「これはボクの糸だ、みんなあっちへ行け」
と叫びたかった。
しかし一番最初に蹴落とされたのは他でもないボクだったのだけれど。
それから数年間ボクは毎年公務員試験を受けては一番に蹴落とされて来た。
ボクの公務員試験への挑戦は六年間続いた。その間もずっとボクは父ちゃんと母ちゃんからお金を送ってもらって東京で生活をしていた。
六回目の不採用が決まった時、父ちゃんが軽い脳梗塞でひっくり返った。ボクは東京のマンションを引き払って実家のある田舎に帰ってきた。父ちゃんはベッドの上で
「照気留もそろそろ就職しないといけんな。もう公務員にこだわらんでもええから、自分の出来る仕事に就いたらどうだ?」
と言った。ボクは公務員になることをとりあえず諦めて就職することにした。とりあえずと言ったのは、完全に諦めたわけでは無かった。なぜならボクは公務員になるよう選ばれた人だと思っていたからだ。
自分に出来る仕事に就けと言われても、ボクは何をしていいのかさっぱりわからなかった。だってボクは公務員になるために選ばれた人間だったのだから、急に一般の企業に就職しろって言われても何をしていいのか、何が出来るのかもわからなかった。
そんなボクに父ちゃんは
「ハローワークに行って相談してみろ」
と言った。
ボクはハローワークが何をしているところかも知らなかったが、父ちゃんが言うので行ってみた。ボクはハローワークの職員さんが
「今までブランク期間が長いので、まず始めに短時間のアルバイトから初めて見てはどうですか?これはコンビニのアルバイトですが、一日四時間、週に三日。どうですか?ここなら自宅からでも歩いて行けますよ」
そうなのだ、ボクは車の免許を持っていないのだ。東京は公共の交通機関が発達していて、車の免許を必要としていなかった。それにボクは選ばれた人間だから、霞が関で働く公務員になるはずだった。そして公務員になったら、自宅と霞が関をタクシーで通うことにしていたので、車の免許は取る必要がないと思っていた。だからボクは自宅から徒歩か自転車で通えるところからしか仕事を選ぶことが出来なかった。
ボクは職員さんが勧めるままにコンビニの面接を受けてみた。面接はとっても簡単で、ボクはすぐに採用になった。そりゃそうだ、ボクは公務員になるために選ばれた人間なのだ。コンビニの面接なんかで不採用になるわけが無かった。
しかしコンビニのアルバイトはきつかった。何がきついって覚えることが多い。ボクはコンビニの仕事はレジでピッてやるだけだと思っていた。ところが、やれお弁当の温めだ、振り込みだ、ポイントカードだと覚えることが山程あった。そりゃボクは頭がいいから、やれば出来るかも知れないけど、選ばれた人間のすることでは無いと思っていたから、全然覚えることが出来なかった。店長から
「何度同じことを教えたらいいの!いつになったら覚えるんだ」
とよく叱られた。しかし覚える気が無いからいつも
「すみません」
と天井を見ながらあやまっては、その場をしのいでいた。
それにだ、お客さんとの会話もうまく出来なかった。
小学校から中学、高校とボクは友達と話すことが少なかった。奈母啼大学に進学してからも友人と呼べる友達は出来なかった。ボクは友達との会話に興味がなかった。ボクは選ばれた人間なのだから、ボクは友達も選ばないといけないと思っていた。選ばれたボクから見るとまわりはみんなボケナスに見えた。ボケナスと話をしても何も得るものは無いと、ボクは思っていたからボクは友達を作らなかった。断っておくが、ボクは友達が出来なかったわけでは無くて、作らなかったのである。
そんなボクをまわりの奴らは変人だと言っていた。ボクは変人だと言いたければ言えばいい、変人のうえに変態なのはお前らだといつも思っていた。
そんなボクだから、お客さんが声をかけて来ても返事をする気にはなれなかった。だからお客さんともうまく会話をすることが出来なかった。
お客さんだけでは無い、アルバイト仲間の同僚とも話をすることが出来なかった。いつも一人で誰かに声をかけられるまで黙っていた。もちろん声をかけられても返事はしなかった。
おそらくお客さんはボクのことを感じの悪い変な店員と思って見ていたに違いない。中にはそんな感じの悪い店員に話しかけてくるお客さんもいた。ボクは何を話しかけられてもいつも曖昧な返事を繰り返していた。だってお客さんは庶民だ。ボクは選ばれた人間なのだ。庶民となんか話が出来るか、世が世ならば、お前たちはお手打ちになっているんだぞって思っていた。
そんなコンビニのアルバイトは三ヶ月で辞めた。断っておくが辞めさせられたわけではない、ボクから辞めたのだ。辞める時に店長が
「君はもっと社会人としての勉強をしたほうがいい。もっとコミュニケーションを取れるようにしたほうがいい。でないと、どこに行っても勤まらないよ」
と話してくれた。ボクは勉強をしたほうがいいのは、お前ら世の中の一般人の方だ。ボクのように選ばれた人間とどう付き合えばいいのか、しっかり勉強しろって思っていた。
コンビニのアルバイトを三ヶ月で辞めてから、またハローワークに行って仕事探しを始めた。ハローワークの職員がどのような仕事を希望するのか?と聞くので
「自宅の近くで、事務職の仕事を探しています。ボクは大学も出ているんです。事務の仕事経験はありませんが、大学で学んだことを活かして頑張れると思うのです」
そう言うと職員は
「今はね……大学を卒業してもね……」
と言葉を濁すのであった。
それからしばらくは事務職で仕事を紹介はしてもらっていた。しかしどこに面接に行っても採用にはならなかった。そんな時、職員から
「押琴さん、自宅からちょっと遠いけど、郵便局のアルバイトはどうです。郵便物の仕分けの仕事です。頑張って仕事をすれば、正社員の可能性もあるようだし。自転車なら通えませんか?」
と郵便局のアルバイトを勧めてくれたので、ボクは受験してみた。結果は採用だった。自宅からちょっと遠いので、通勤が大変かとは思ったが、せっかく貰った採用だったので働いてやることにした。
しかしこの郵便局の仕事も長くは続かなかった。だって郵便物って意外と重いんだ。ボクははがき一枚を持って仕事をすることを想像していたんだけど、実際にはたくさんの郵便物が入ったプラスチックの箱を持たなければならずその箱がこれまた重たい。ボクは小さな時からお坊ちゃまとして育てられたので、箸より重たいものを持ったことが無い。そんなお坊ちゃま育ちのボクにはとても持てるものではなかった。
結局、郵便局の仕事は一ヶ月で辞めた。しかしボクはよくあの重労働をなんと一ヶ月も頑張ったのだ。これは自分の誇りにしていいと今でも思っている。
郵便局をやめると、またボクはハローワークに通うことになった。郵便局を辞めたのが、平成十七年なので、なんだかんだともう十年以上ハローワークに毎日通っている。
その間にボクは資格をとった。日商簿記三級という難しい資格だ。母ちゃんが簿記の資格は難しい資格だから持っている人が少ない。だから事務職を目指すのであれば、資格を取った方がいい。資格を取ったら事務職の仕事ができるようになるというので、ボクは頑張って資格を取った。高校や大学の時には勉強なんて適当にやっておけばいいと思っていたが、この時だけは頑張った。おそらくボクの今までの人生の中で一番頑張って勉強した時だと思う。
資格の取得は難しかったが、ボクはなんと三年間、九回目の挑戦という速さで取ることが出来た。資格をとった時には、これで事務職の仕事ができるようになる。もう不採用の三文字ともおさらばだと思っていた。
ところがどっこい、その後もボクの不採用記録の更新が続いている。今日もその不採用通知が届いた。さっきゴミ箱に押し込んだやつだ。
まったく世の中の会社の奴らは人を見る目を持っていない。ボクのように選ばれた人間を不採用にすること事態が、人を見る目を持っていない証拠だ。奴らにはボクの偉大さがわからないのだ。そりゃそうかも知れない。奴らは今まで庶民しか見たことが無いのだ。ボクのように選ばれた人間なんて見たことが無いのだ。だからボクを見て、ボクの話を聞いても理解できないのだ。知らないということは可哀想なことだ。
ボクはしばらく窓の外の梅雨のどんよりとした空を眺めていた。
いったいボクの何が悪いというのだ。大学も卒業しているし、簿記の資格も持っている。事務職としてこれ以上の適任者はいないはずだ。なのになぜどこもボクを採用してはくれないんだ。
しばらくそんなことを考えながら窓の外を見ていたが、いつまでも終わってしまったことを考えていても仕方がないと気を取り直して、ボクはまたハローワークへ行くことにした。
そうなのだボクは何事にもくよくよしない性格なのだ。終わってしまったことにいつまでもしがみついていても仕方が無いと思っている。これは我ながらいい性格だと思っている。だからボクは今まで反省と言うものをしたことが無い。今までの人生を振り返って見たことも無い。それはボクは選ばれた人間だから間違った道は歩んではいないと思うからだ。
午後五時になるとボクはいつものように自転車に乗って駅に向かった。駅に着くと仕事終わりのサラリーマンたちで駅は混んでいた。その姿を見てボクは、この人達は選ばれなかった人たちなんだ、だから毎日こうして満員電車に乗って、あくせくと働かないといけないんだ。ボクとは住む世界が違う人達なんだと思って見ていた。
ボクはその庶民と一緒に二駅ほど乗って、ハローワークに向かった。電車の中は混んでいると行っても、立っている人は無く、それぞれが席に腰をかけて疲れきった身体を休めている。
ボクの向かいに座っている中年の男性は、地味な茶色のシワがよったスーツを着ている。そしてスーツの色とは違って派手な赤のネクタイがだらしなく首からぶら下がっている。夕方なので薄っすらと濃くなってきたひげが汚らしいその顔は、なんてマヌケな顔なんだ。そのマヌケ面がかけている黒縁のメガネは電車が揺れるたびに少しづつズレて、もう少しで鼻から落ちそうになっている。このマヌケ面野郎が、昼間は私が日本の経済を支えていますなんて話しているのかと思うとへどが出そうになる。
他の奴らもみんなそうだ。どいつもこいつもくたびれきった顔をしやがって、ああ、やだやだ悲しい庶民の顔だ。ボクはこんな奴らとは違うんだって改めて思ってしまう。
ハローワークは駅前から五分ほど歩いた雑居ビルの四階にある。一階と二階は全国チェーンのコーヒー店やこれまた全国チェーンの居酒屋が入っている。三階は知らない会社の事務所のようだ。その上の四階のフロアー全てがハローワークになっている。
以前は四階まで階段で上がっていたが、最近はエレベーターを使うようになった。若い若いと思ってはいたが、やっぱり四十代になると多少体力も衰えて来たのかと思ってしまう。
ハローワーク自体は五時過ぎには閉庁するだが、若者支援の相談窓口は午後の六時まで開けているので、夕方から行動が始まるボクにとっては好都合だった。
今日も午後五時五十分、いつもの時間にハローワークの受付を済ませる。受付の女性が、もう少し早く来れませんかという顔をあからさまに見せるが、ボクは気にしない。ボクはいつも受付の女性を
「六時までに受付をしたらいいんだろ」
という目で睨みつけてやる。
「山崎さんと相談したいのですが、お願いします」
と言うと受付の女性は番号札をさし出しながら、
「お呼びしますので、かけてお待ち下さい」
と言って、待合のイスを指差した。ボクは言われた通りに待合のイスに腰をかけて読んでもらうのを待つことにした。
閉庁間際の待合のイスに腰を降ろしている人は少ない。しかし今日はボク意外にもう一人、あまり見かけない顔の老人が腰かけて順番を待っていた。
しかし汚えジジイだ。薄汚れたズボンに何時から着ているのかわからないようなジャケットを羽織っている。そのジャケットに白髪の頭からフケが落ちている。あの頭だって何時洗ったんだか分かったもんじゃない。なんだか臭って来そうなジジイだ。どこで暮らしているのだろうか?もしかしたらホームレスかも知れない。しかしハローワークというところは不思議なところだ。本来ならば天上人であるボクと、今日の暮らしにも困っている貧乏なジジイとが、同じ長椅子に腰掛けている。世が世ならば考えられない光景だ。
などと考えていると、ボクの番号が呼ばれた。
ボクが通っているハローワークは基本的には指名は出来ないらしいが、ボクはいつも山崎さんを指名している。なぜかというと人が変わると、その度に同じ話をしないと行けないのが面倒だからだ。毎回、同じ人であれば同じ話を二度しないで済む。
ボクは山崎さんのブースの前まで行った。山崎さんはまたお前かという顔をしながら
「こんにちは……どうぞ」
と声をかけて、イスを手で指しながら腰掛けるように言った。そんなことは言われなくても分かっているが、まあ挨拶だ。ボクは言われるままにイスに腰掛けた。考えて見ると、もう十年以上このイスにボクは腰掛けている。
ボクの前に座っている山崎さんは、もう五十歳を超えているのでは無いかと思う。頭もすっかり薄くなって、残り少なくなった髪の毛を七三に分けている。山崎さんはちょっと太っており、ふっくらとした顔はいつもテカテカと光っている。目は小さく、団子のような鼻と分厚い唇の顔の造作は決していい男とは思えない。もしボクが女だったら、山崎さんは真っ先にご遠慮いただくに違いないと思っている。でもそんな山崎さんにも、奥さんとお子さんがいるらしく、雑談の中で時々奥さんやお子さんの話が出てくる。世の中はわからないものだ。
「こんにちは、今日はどうしました?」
どうしましたもこうしましたも無いだろう。仕事の相談に決まっているじゃないか。それとも何かハローワークでは結婚の相談もしれくれんのか?と思ったが
「こんにちは……先日面接を受けた小模内(しょうもない)商店なんですけどね。今日不採用の連絡がありました」
「そうでしたか、それは残念でした」
何が残念でしただ、不採用になっているのは、あんたの方がとっくの昔に知っていたろうが、ボクはハローワークには、求職者より先に採否結果がファックスで届いているのを知っているぞ。そうは思ったが
「今回は何がいけなかったのでしょうか?何か連絡は来ていないですか?」
「いや、何も来ていないですよ。今回も確か……事務職でしたよね?」
「いったいボクの何がいけないんでしょうか?ボクは山崎さんも良く知っておられるように、大学だって出ているし、資格も持っているんです。事務職がボクには適職だと思うんです?」
「そうですね……」
「悪いところがあったら、はっきり教えて欲しいんですよ。コミュニケーションが悪いなら、悪いって」
「押琴さんは、ご自分でコミュニケーションが悪って感じておられるんですか?」
「……」
確かに、確かにボクは他人から見たら決してコミュニケーションがいい人間では無いだろうと自分でも何となく思っている。人にあっても挨拶はほとんどしないし、声をかけられても返事はしない。人と雑談をすることもない。他人から見たらボクは変人の部類に入るに違いないと思っている。
しかしそれはボクが選ばれた人間だからだ。ボクはボクと同じように選ばれた人間同士で話が出来ればいいと思っている。それ以外の会話は無駄だ。庶民なんかと話す気はないし、話が出来なくてもボクはちっとも困らない。山崎さんが続ける。
「押琴さん、押琴さんはもしかしたら、自分の何が悪いのか、本当はご自分で何となくでも気が付いておられるのでないですか?もしその何が悪いのかに気が付いておられるのであれば、その悪いと感じておられることが、押琴さんの弱点ですよね。しかしですね、自分の弱点が分かっているということは、押琴さんはご自分の弱点、つまり改善点を知っているということになりますよね。押琴さんはご自分の弱点を改善することで、今までに無い結果を出せるようになるかも知れないじゃ無いですか。今までの面接も思い出してみて下さい。あれは失敗だったなと思い出すこともあるでしょう。今からその失敗をやり直すことは出来ません。しかし同じ失敗を二度繰り返さない対策を立てることは出来るはずです。ご自分の弱点の改善、二度同じ失敗をしないようにする、それが必要なんじゃ無いでしょうか」
「まあ、何となく感じていることはありますよ。でもね、ボクは大学も出ているんです。資格も持っているんです。事務職としては何も不足は無いと思うんです。なのにどこも採用してくれない。どうしてでしょう?」
「押琴さん、押琴さんはちょっと勘違いをしていらっしゃるのでは無いでしょうか?大学を出ていることや、資格を持っていることが、仕事が出来るという保証では無いんですよ。例えばですね、運転免許証を持っている人は、みんな安全運転で事故を起こさないでしょうか?世の中の交通事故のほとんどは、運転免許証を持っている人が起こしているんです。運転免許証を持っていることが、事故を起こさない保証では無いんです。運転免許証を持っているイコール安全運転が出来るではないんです。安全運転、つまりいい仕事が出来る保証では無いんです。大学を出ていることや資格を持っていることは、少なくとも何らかの知識と資格に関しての最低限の知識を持っている人です、と言っているだけで仕事が出来る人だとは言っていないのですよ
ボクは返す言葉が無かった。言われてみればその通りだ、大卒なんてその辺りにゴロゴロといるに違いない。だいいち、ボクが学んだ高校は進学校であったこともあるが、同級生のほとんどは大学に進学した。ボクだけが大卒では無いのだ。ボクの同級生はみな大学卒なのだ。
資格にしてもそうだ、確かにボクは簿記の資格を持っている。しかし世の中には簿記の資格は持っていなくても、経理の事務をしている人はたくさんいるに違いないのだ。経理の事務をしている人がみんな簿記の資格を持っているとは限らないのだ。考えてみれば、世の中のお母さんと言われる人は、調理師の資格を持っていないけど、美味しいご飯を作ることが出来るのだ。調理師の資格を持っていることが、美味しいご飯を作れるということでは無いのだ。世の中には『おふくろの味』とか何とかいって、調理師の資格を持っている人が、調理師の資格の無いお母さんが作っていた『おふくろの味』を作っているのだ。
ボクはしばらく黙っていた。山崎さんもボクの顔を見ている。ボクはここで帰るのはなんだか山崎さんに負けたようで悔しかった。ボクは
「それと、ボクはパソコンもそれなりに出来るんですよ。パソコンを使った仕事が出来ると思うんです」
「いいですか、パソコンが仕事をするわけではありません。パソコンはただの道具なのです。ほらここにセミナーの案内がありますよね」
そう言って山崎さんはブースのパーテーションに貼られた就職セミナーの案内を指差して
「案内はパソコンで作ってあります。しかしパソコンが勝手に案内を作ったわけではありせん。誰かがパソコンを使って案内を作ったのです。その気になれば手書きでも案内は作れます。逆にどんなに高価で高性能なパソコンを持っていても、案内を作る気が無かったら案内は出来ませんよね。要は案内を作るのはパソコンでは無くて人なのです。仕事をするのはパソコンでは無くて人なのですよ。道具より人物が大切なのです」
ボクはまたまた返す言葉を失っていた。それどころか山崎さんの顔が憎たらしい鬼のように見えていた。
「何をくだくだと言いやがる」
確かにパソコンが出来ると言っても、ネットで買い物をしたりする程度で、特に得意なわけでは無い。ワードやエクセルも名前は知っているが使ったことはない。メールもアドレスはあるが、ネットで登録に使う程度で、誰か知り合いからメールが来たことも送信したことも無い。もっともメールをくれるような知り合いもいないが。だからパソコンの電源を入れるのは一週間に一度あればいいほうだ。現在のボクの生活にパソコンの必要性は感じられない。だってボクは選ばれた人間なのだから庶民とメールなどする必要は無いからだ。だからパソコンが出来ると言っても、パソコンを活用して仕事をする自信は無い。しかしだ、ボクだってその気になれば仕事は出来る。ただ今までそのチャンスが無かっただけだ。ボクに運がないだけだ。世の中の人は、みんな人を見る目を持っていないからだ。選ばれた人間を見つける優れた目を持った人間がいないから、ボックの優秀な力を発揮することが出来ないのだと心の中で叫んでいた。
「でもね、山崎さん、ボクはこんなに頑張って、一生懸命に就職活動をしているのに、どうして採用にならないんですかね?」
「押琴さんは今一生懸命に頑張っているとおっしゃいましたが、自分がいくら頑張っていると言っても、世の中の人は頑張っていると思っていないかも知れないのですよ。押琴さんの頑張ったは、自己満足なのかも知れないのです。頑張ったか、頑張っていないかは、自分が決めることでなくて、人が決めることなのでは無いでしょうか。要は他人から頑張っていると認めて貰わないといけないのですよ」
「じゃあどうしたらいいのでしょうか?ボクは大学を出るために頑張った。資格を取るために頑張った。そして公務員になるための試験も頑張った。後は何を頑張ったらいいのでしょうか?」
ボクは少し興奮してきていた。ボクは今まで頑張ってきたと言っているが、本当に頑張ったのかと言われるとそうでも無い。高校だって適当に行っていた。大学も入れそうな大学を選んで、親にたくさんの入学金を払ってもらった。学費も生活費もなにもかも親に頼った学生生活をおくってきた。公務員試験に合格しないのは、みんなが公務員を目指すからだと世の中の景気が悪いからだと言ってきた。就職試験を受けて不採用になるのも世の中が悪いからだと思って、面接の対策を立てたことも無いし、採用してもらおうと努力はしなかった。山崎さんはそんなボクの今までの頑張らなかった人生を見透かしているような顔で
「押琴さん、押琴さんは世の中に認めてもらえるようにしないといけないのかも知れないですよね。そう選ばれるようにならないと……」
山崎さんは続けた
「押琴さん、先ほどから押琴さんが採用にならないのは、企業の担当者が悪いとか、世の中が悪いと話しておられますが、私たちはその世の中で暮らしているのです。世の中が悪いかどうかは私にはわかりませんが、その悪いかも知れない世の中で生活しないと行けないのです。その世の中は変えようと思ってもなかなか変わりません。世の中を変えようと思ったら大変な力が必要です。でもね、押琴さん、世の中を変えることは出来ないけど、自分を変えることは出来るのでは無いでしょうか。自分を認めてもらえる人間に変える。選ばれる人間に変えていくことは出来るのでは無いでしょうか?」
今日の山崎さんは自分の論説に満足しているのだろう、どうだと言った顔をしてボクをみている。そのドヤ顔を見ていると、ボクは息苦しくなってきた。膝の上においている手が小刻みに震えているのが自分でもわかった。ボクは黙って席を立った。これ以上、山崎さんの顔を見ていると何かが爆発しそうだった。ボクは山崎さんにペコリと頭を下げると、山崎さんのブースを後にした。山崎さんの隣のブースには先ほどのジジイが座っていた。
ボクは黙ってハローワークを出ると、日が暮れかかった街に出た。まだ昼間の暑さが残ってはいるが涼しい風が吹いていた。ほてった頬を撫でるその風が心地よかった。ボクは駅とは反対の方向に歩き出した。別にどこに行こうという宛があるわけでは無かった。ただ何となく駅には向かいたく無かった。街には一日の仕事を終えて帰宅を急ぐ庶民で溢れていた。ボクはその人混みを避けるようにして歩いた。
しばらく歩くと商店街のアケードの前に出た。商店街の入口には、昔からのスーパーがある。ボクは何となくそのスーパーを前に立って店の中を見ていた。いや何か欲しいものがあったわけではない。ただ何となくだ。
ふと店の入り口の横を見ると、野菜の見切り品のワゴンが置いてあった。ワゴンには、すでに色が変わり始めたキュウリやピーマン、何となく新鮮さがなくなったレタスなどが並べられており、どの商品にも20%引きとか半額とかいう値引きのシールが貼られている。ワゴンはスーパーの入り口の脇に置いてあるので、ひっきりなしに出入りする客のめに止まっていると思うのだが、立ち止まってそれらの見切り品の品定なめをする客はいなかった。見切り品の野菜にはすでに商品としての価値は感じられなかった。スーパーはもうすぐ閉店の時間になる。閉店の時間を過ぎたら、これらの見切り品はきっと廃棄処分となってしまうに違いない。
ボクがじっとそのワゴンを見つめていた時だった。
「選ばれなかったんじゃな、この野菜たちは」
とボクの後ろから声をかけてきた者がいた。驚いて振り返ってみると、さっきハローワークにいた汚いジジイだった。
「若いの、さっきは山崎のジジイから随分言われていたな」
山崎のジジイって、てめえだってジジイじゃないか。ボクはむっとしたが、無視して黙っていた。汚いジジイはそんなことは関係なしに話を続けた
「じつはな、わしも随分と遠回りをしてきたんじゃよ。お前さんを見ていると、なんだかむかしの自分をみているようだよ。わしも大学を出ておる。しかしだ、お前さんと違うことがある。わしらは団塊の世代と言われておる。わしが高校を卒業する頃はな、ほとんどが就職したものだ。いやまだ中学を出ると働き出す者もたくさんいた。大学に行くものはまだまだ少なかった。だから大卒は珍しかったしインテリだった。お前さんの大卒とは価値が違っておった」
ボクはうるせいなと思っていたが、無視を続けていた。ジジイはさらに続けた
「わしの家は医者だった。だから当然大学は医学部を勧められた。両親もわしが医者になることを望んでおった。しかしわしは医者なんかにはなりたくは無かった。わしは新聞記者になりたかった。だからわしは医学部ではなく、両親の反対を押し切って文学部に入って卒業した。わしは大学を卒業したことが自慢でならなかった。大学を卒業したわしはなんでも出来ると思っておった。わしは高校の時から新聞記者に憧れておった新聞記者になって自分の書きたい記事を書こうと思った。そしてわしは大学を卒業すると新聞社に入った。自分の夢がかなったと思った。しかし、自分の書きたい記事を書くことは出来ず、また上司とも意見が合わずに、わしは三年ほどで新聞社を辞めた。自分のことを認めてくれない新聞社にいつまでいても仕方が無いと考えたからじゃ。その後は、システムエンジニアの仕事に就いたが、この仕事も客の言うことを聞くばかりで、自分の考えたものを作れるわけでは無かった。システムエンジニアの仕事も二年で辞めた。その後は短期の離転職を繰り返して定職に就くことは無かった。いつしか憧れていた新聞記者への思いも無くなって、無気力な就職活動を続けるようになった。年齢を重ねるに従って、そんなわしを雇ってくれる会社は無くなった。しかし大卒の学歴を持つわしは自分の力を発揮出来る仕事がきっとある。今までは自分に運が無かっただけだ。大卒の自分の力を発揮できる仕事が見つかるまで、職安に通って就職活動を続けようと思っていた。しかしそれは間違いじゃった。結果的にわしは短期の離転職を繰り返し、気がついたらもう五十歳を超えて、普通に会社に勤めておれば定年退職の年齢になっておった。しかもその歳になるまで、自分に合った仕事に出会うことなど無かった」
「お爺さんも苦労されたんですね」
ボクはこの時初めてジジイに返事を返した。
「ああ、苦労かどうかはわからんが、わしの生活は次第に荒んでいった。毎日職安に通って、仕事探しをして、面接を受けては不採用の通知を受け取る。そして夜になるとやけ酒を飲む。次の日は酒の匂いをプンプンさせてまた職安に行く。次第に職安でも嫌われ者になっていき、職安の鼻つまみ者になっておった。そのうえ仕事をしていないわしは生活費にも困るようになった。わしは市の生活保護のお世話になるようになった。ひどい生活だった。六十歳を超えた頃じゃった。わしは毎日の酒が祟ってある病を患って入院をした。それも三ヶ月間もな。しかしその三ヶ月間入院したことによって、わしは酒をやめることが出来た。今から思えば病になったおかげで酒をやめることが出来て今まで生きることが出来たのかもしれん。そしてその頃になって、わしはやっと気がついた。今までの仕事探しは間違っておったことにな。自分のやりたい仕事なんて、自分に合った仕事なんてありわしない。そりゃたまにやりたいことをやっているうちに、いつの間にか自分の仕事になっていましたなんて言う奴もいるが、そんな奴はほんの一握りの人間だ。世の中の殆どの人は、みんな自分に合った仕事なんてしていない。みんなは好む好まざるに関わらず与えられた仕事をそれなりの力で頑張っているんじゃよ」
「でも、やっぱり自分にあった仕事ってあると思うんですよ。ボクみたいに大学を卒業して資格をとった者が、何も好んで工場で油と汗にまみれて肉体労働をしなくても、学歴と資格にあった、それなりの仕事に就くことが当然だと思うんですが……」
「それが間違いなんじゃよ。いいかい、人が仕事を選んでいると思っていると思っているかもしれないが、本当は仕事が人を選んでおるんじゃよ。その人の力、その人の能力に合った仕事が、仕事の方からやって来るんじゃよ」
「仕事が人を選んでいるんですか?」
「そうじゃよ。例えばじゃ、ある人がいたとしよう。ある日その人にとってはつまらない、やりたくない仕事を与えられたとしよう。お前さんだったらどうする?」
「断りますね」
「そうだろうな、わしもそうじゃった。自分が気に入らない仕事はやりたくは無かった。しかしじゃ、そのやりたくない仕事を与えられた人は断らなかった。断らなかったどころか、その仕事をきちんとやり遂げたとしよう。すると今度はまた同じような別の仕事の依頼がやってくる。またその人にとっては気に入らない仕事のはずじゃ」
「そうでしょうね」
「しかしだ、もしその人が前の仕事を最後までやらなかったり、仕事に失敗していたら、同じような仕事の依頼が来るだろうか?」
「おそらく来ないでしょうね」
「そうじゃろうな、おそらく今度はもっとレベルを下げた仕事を頼まれるだろうな。その仕事はその人にとっては不満を感じる仕事のはずじゃ」
「そうだと思いますよ」
「しかしだ、世の中はそういうもんなんだ。仕事を頼む人は、その人に出来ると思う仕事を頼んでいるものなのだ。その人には無理だと思う仕事を頼んだりはしない。当然仕事力の低い人にはそれなりの仕事を頼むことになる。逆に仕事をやり遂げた人には、同じような仕事でも、本当は少し難しくなった仕事を頼むのものなのだ。たとえ始めは気に入らない仕事でも、その仕事を自分に与えられた仕事と思って、次々にやり遂げている人のところには、次々に仕事の依頼が来るものなのだ。そして仕事の内容は少しずつ難しくなって言っている。そしてその難しくなった仕事に取り組むことによって、その人の仕事力も少しずつ高くなっていく。そしてどんどん仕事の依頼が増えて、どんどん忙しくなってくる。当然、その人はどんどん仕事をこなすことにやりがいも感じるようになるだろうな。このように、仕事というものは、仕事が出来る人のところに集まって来るものなんじゃよ。もちろん、わしらのように仕事を断った者のところには二度と仕事の話は来ない。わしらは仕事を選んでいるようで、仕事に選ばれているのかもしれんな」
「じゃあ、ボクは仕事に選ばれなかった人間ということですか?ボクは大学も出ているし、資格も取っている。なのに選ばれなかった。あんなに頑張って来たのに、ボクはいくら努力しても仕事には就けないと言うことですか?」
「逆じゃよ、お前さんの努力は、世の中の人から見たら、努力と言えるものでは無いかも知れんのじゃよ。いいかい、お前さんはまだ努力が足らないんじゃよ。お前さんは大卒という学歴と資格を持っていると言うだけで、今まで就職活動をしてきた。よく考えてみなさい、今の時代、大卒で資格を持っている人間なんて山ほどいる。お前さんには大卒という学歴と資格意外に何かアピール出来るものがあるかい?ありゃせんじゃろう。お前さんには大卒と資格以外には何もありゃせんのじゃよ。それでは他の人には勝てないし、仕事にも選んではもらえんじゃろうな」
「だけどボクの家は代々役人の家系で……」
「そんなもんは関係無い。いいかい、あのワゴンの中を見てみろ、見切り品の中に色が変わりかけたキュウリがおるじゃろ。お前さんはあのキュウリを買うかい?」
「あんな腐りかけたキュウリなんか買いませんよ」
「そうじゃろうな。おそらく世の中の人は、いくら安くてもあのキュウリはもう買わんじゃろうな。あのキュウリは今晩にはおそらくゴミ箱の中に行く運命だろうな。哀れなもんじゃ。しかしな、あのキュウリも始めっから見切り品だったわけでは無いな。それに何も好んで見切り品になりたかったわけでは無いじゃろう。あのキュウリだって、おそらく農家の人に大切に育てられて、JAや卸業者の厳しい選別の審査を通ってこのスーパーに来たはずじゃ。あのキュウリは選ばれたキュウリだったはずじゃ。あのキュウリと一緒の畑で育ったキュウリの中には、見てくれが悪いがばっかりに漬物のような加工食品に選ばれたキュウリもあるはずじゃ。今、ワゴンの中のキュウリはそんな加工食品に選ばれたキュウリに対して優越感を持っていたかも知れんな。おそらくあのキュウリにしてみれば、自分は見てくれのいい新鮮な選ばれたキュウリで、新鮮なうちに買ってもらって、華やかな食卓に並ぶんだと思っていたに違いない。あのキュウリも数日前にこのスーパーの野菜の棚に並んだ時には、他のキュウリと同じように新鮮で美味しいキュウリとして並んだはずじゃ。しかし他のキュウリが次々に買われていくなかで、あのキュウリは何故か選ばれなかった。わしにはあのキュウリが選ばれなかった理由はわからん。しかし何かが足らなかったんじゃろうな、何かが不足していたんじゃと思う」
「それは運と言うものではないですか?」
「そうかも知れん。運が悪かったのかも知れん」
「ボクもお爺さんも、運が悪いのかも……?」
「いや違う。お前さんはキュウリでは無い。キュウリは選んでもらえない現実が分かっても、自分ではどうすることも出来ない。自分は新鮮で美味しいキュウリですよとアピールすることはもちろん、私を買って下さいと叫ぶことも出来ない。しかしだ、お前さんは人間だ。まだ自分をアピールすることが出来る。選ばれる人間になるように努力することが出来る。選ばれる人間に変わることが出来る。今まではその努力が足らなかったんじゃないかな?」
「……」
「いいかい、わしはもうあの見切り品のキュウリと同じじゃ。わしは自分の育ちと学歴に頼るだけで、自分が選ばれる人間になる努力をしてこなかった。自分が選ばれないのは、企業や世の中が悪いと思っておった。今のお前さんも、大卒という学歴と資格の上にあぐらを書いて、自分は公務員の家に生まれた選ばれた人間だと言って何の努力もしなかった。そしてさっきお前さんが言ったように、運が悪いから仕方がないと思って何もしてこなかった。それじゃあダメなんだよ」
「……」
「しかしじゃ、お前さんはまだ若い。まだ選ばれる人間になることが出来るかも知れない。まだまだ働かないといけない。自分に何が不足していているのかをよく考えて、努力すればいい結果につながる可能性を持っている。さっきわしは、世の中にはやりたいことをやっているうちに自分の仕事になったという人が少ないがいると言った。しかしその人達だって全く何の努力もしなかったわけでは無い。その人達だって自分のやりたいことをやり続けるという努力をしてきた結果、自分のやりたいことが仕事になったのだ。もしかしたら、やりたいことを続ける努力の方が大変なのかも知れんな。仕事をするということは、そうした人にはわからない努力が必要なのじゃよ。しかし、今のわしにはもう無い……」
「自分に足らないもって……?」
ボクにはわからなかった。気が付くと辺りはすっかり日が落ちて暗くなっていた。スーパーの入口のシャッターも半分降ろされて、店員は閉店の片付けを忙しそうにしていた。
見切り品のワゴンを片付けるために一人の店員が出てきた。店員はワゴンをじっと見つめているボクに向かって
「何かお買いになりますか?」
と聞いて来た。ボクは
「いえ、何も、結構です」
と答えた。
店員はワゴンを店の中に動かしはじめた。ボクはジジイを探した。しかしジジイの姿はどこにも無かった。
「何をしたらいいんだ……?」
「それを考えるのが、これからのお前さんの就職活動じゃよ」
店員が片付けているワゴンのキュウリがそう言ったように、ボクには聞こえた。